君が君であるために





 下忍担当の上忍師リストにはたけカカシの名前を見つけて以来、イルカはずっと落ち着かなかった。
 かつてはたけカカシとの間には奇妙な縁があったのだ。
  カカシが敵の禁術で時を奪われ14の子供に戻っていた頃の事だ。ほんの短い間イルカはカカシのおもり役として共に過ごした。このことは里の重要機密のひとつとして、 今でも箝口令が敷かれている。知っているのはあの場にいたごく少数の人間だけだ。すでにあの術を使える者はいなくなったとしても里の上層部にとっては悪夢の ような日々だったのだろう。
 「言霊」という概念がある。言葉には力が宿っていて、その力によって言葉通りの事象がもたらされると信じられている。 それ故に上層部の面々はあの事件を蒸し返してそれが再発するのを心底恐れているのだ。馬鹿馬鹿しいと言う無かれ。はたけカカシは、それほど里にとっての 重要人物だった。
 解術方法をなんとか探しだしてカカシは元に戻った。その瞬間子供のおもり役としてのイルカの存在は意味を失った。 イルカを慕いイルカが愛した14のカカシは消えていなくなったのだ。それをどれ程厭おうとも、里の決定に異議を唱える事は不可能だった。 イルカにとってのカカシは14の、共に過ごしたカカシだけでそれ以外の誰もカカシではない。けれども里にとってのカカシは逆なのだ。 14のカカシなど里は必要としない。最初からわかっていた事だが、それはイルカに耐えられないほどの痛みをもたらした。
  元に戻ったカカシは当時担当していた 子供達の指導に再び就く事になる。 しかしそれも長くは続かず、子供達の実力が中忍試験に充分通用すると判断すると、職を離れ前線に帰っていった。
 そうして一年が過ぎて。
 再びカカシが上忍師として里に戻ってくる日が来たのだ。



 「イルカ先生…、顔色悪いってばよ。大丈夫なのか?」
 金色の子供はこの一年で随分背が伸びた。未だ中忍には昇格していなかったが、次の試験では 合格確実だろうと噂されるまでになっていた。けれど他人を気遣うやさしさは昔のままで、それがイルカを慰めた。詳しいことは何一つ語っていないのに、 この子供は肝心なことだけは本能でわかっているらしい。
 「大丈夫だよナルト。俺は平気だから心配するな」
 あの後。カカシが元に戻ってからはまともに 話をする暇もなかった。 元々カカシはイルカを嫌っていたし、イルカの方も何を喋って良いのかわからなくてカカシを避けた。術に掛かっていた時の記憶のないカカシに 迂闊な事を言ってしまうかもしれない。
 イルカの知るはたけカカシもう消えてしまってこの世の何処にもいない。 それをはっきりと思い知らされるのが嫌だった。そんな感じで結局カカシが里を出るときまで、二人で話す機会はなかった。
  当時を思い出すと今でもイルカの胸は鈍く痛む。幸いアカデミーは生徒達の卒業試験やら新しいクラス編成やらでここ数日というものてんてこ舞いだった。 おかげで余計な事を考えている暇もなくて、イルカにとってはかえって有り難かった。教師はイルカにとってまさに天職で、忙しさの中で徐々に落ち着きを 取り戻していった。子供達も火影もそんなイルカにほっと胸を撫下ろした。
 そんな時だった。アスマが職員室までやって来たのは。
  「悪りいな、イルカ。ちょっといいか?」
 その日は下忍選抜試験の前日だった。卒業した生徒の資料を纏めて、 それらを担当の上忍師に渡すためにイルカは毎日遅くまで残業していた。ぎりぎりで今日纏めあがったそれらを引き出しに仕舞い、イルカはアスマの元に向かった。
  「ご無沙汰してます、アスマ先生。何でしょうか?」
 「忙しいとこ悪りいな…」
 「いいえ。もう今日で終わりましたから大丈夫ですよ」
  「んじゃ、今晩付き合ってくんねえかな。奢るからよ」
 大柄で髭の上忍は見た目と違い結構腰が低い。いや、腰が低いというより気さくと言った方が正しいか。 イルカはくすくす笑いながらお付き合いします、と返事を返した。勿論割り勘を条件に。
 「なんだよ。上忍が奢るっつってんだから大人しく奢られてりゃ いいじゃねえか」
 「そんなわけにはいきませんよ。俺だって一応給料貰ってる身ですから」
 「相変わらず真面目な奴だな。 上忍の給料のが多いのは一目瞭然だってく貰ってのによ」
 「すみませんね。薄給のアカデミー教師で」
  笑いながらそんな遣り取りを交わした後二人は揃ってアカデミーを後にした。

 混み始める前に店にはいると、アスマは適当にいくつかの摘みと酒を注文した。お互いに酌をして、たわいない話に花を咲かせて。
  かつてアスマと飲んだときのことをイルカは思い出す。多くを語らず、しかし常にイルカの気持ちを察して陰に日向に力になってくれたアスマには、 言葉に尽くせないほど感謝していた。カカシを失ったイルカがなんとかやってこられたのも、アスマが気に懸けてくれたおかげだ。そのアスマがこんな風に誘う理由は、 イルカにはひとつしか思い浮かばなかった。
 「あのな…昨日だが。カカシの奴が帰ってきた」
 やはりカカシ絡みか。
  「…そうですか。帰って来るというのは聞いてました。昨日だったんですね…」
 「ああ、それでな…」
  言いにくそうに何度か口を開いては言葉を飲み込むアスマに、ふと胸騒ぎがした。
 「え?いま、何て…?」
  「だからよ、カカシの奴がな、お前さんに会いたいと…」
 まずお前に話を通して了解を取るまで待て、と言ってはあるんだがなあ…あいつ妙に 急いでるみてえでよ…とアスマの話は続いていたのだがその大半をイルカは聞いていなかった。カカシがイルカに会いたがっている?そんな、 今更?大体会ってどうしようと言うのか。あの時の話など蒸し返してもお互いいい気にはなれないだろうに。
 けれども…。
  それはイルカには逆らいがたい誘惑だった。
 カカシに会える。例えそれが人知らずの森で共に過ごしたカカシでなくても、会いたくて会いたくて、 心が悲鳴を上げるほど焦がれた人には違いない。
 「どうする、イルカ。もし会いたくねえってんなら、俺が何としてでもあいつを止める」
  真剣な目で自分を見つめるアスマに、イルカは苦笑する。気遣ってくれるのはとても嬉しいが、そろそろこの気持ちに区切りをつけるいいチャンスかもしれない。
  「ありがとうございます、アスマ先生。でも俺、会います。って言うか会いたい、です。もういい加減自分の気持ちにも決着を付けないと…。良い機会だと思いますから、 カカシ先生に会います」
 イルカの意思を確認した後、アスマは溜息と共にわかったと言ってその話はそこまでになった。 最初から関わってきたアスマには今のイルカの姿は痛々しいばかりで、それを何とかしたいと常に思っていた。
  一方のカカシもあれでも一応友人だ。あの時の記憶はないはずなのだが、どうした事かイルカに会わせろと詰め寄ってきた。 里に戻っておそらくまっすぐにアスマの元にやってきたのだろう。
 カカシに何が起こったのかはわからない。けれど当事者なのだ。どう転ぶかは賭けだった。
  その後はたわいない話をして店を出たのは二時間後だった。
 「何かあったら遠慮しねえで俺に言うんだぞ。お前は変に遠慮深いからなあ。わかったか、イルカ」
  送っていくというアスマを断ってイルカは帰路に就いた。


 夜空に浮かぶ月を眺めながらイルカはカカシの事を考えた。
 一緒に暮らしたのはわずか二週間に満たなかった。 けれど何と充実した日々だったことか。その短い間に二人はお互いを心から大切な存在として認め合った。
 本当に大好きだったのだ。あの人のことが…。
  なのに最後のお別れすらさせてくれなかった。
 せめて最後に一言、言葉を掛けたかった。愛していると言いたかったのに、 それすら出来ないままあの人は永遠にいなくなってしまった。
 あの人がいなくなる現場にいたのは自分ではなくアスマとイビキだった。 その時のことを後からアスマに聞かされて、イルカは大泣きしたのを覚えている。それがカカシなりの思いやりだとアスマは言ったが、 そんな思いやりなんて全然欲しくなかった。
 こんな風にカカシを引きずっているのも、あの時きちんと別れを言えなかったせいだ。
  冷静に考えればそんなことでカカシへの思いが消えるわけもないのだが、イルカはそう思うしかなかった。そうでなければ、永遠にカカシに囚われたまま 生きるしかないのだから。
 今回のコレは、だからチャンスなのだ。
 カカシを忘れるための。いや、結局忘れるのは無理なのだろうから、 カカシからほんの少しだけ解放されるための。
 だってあの男は何も残さなかったのだから。
 形になるものは何もイルカに残さなかった。 ただ人を愛する気持ちと、それ故の身体の痛みだけを与えていった。
 ポロリと涙がこぼれた。
 ああ、だめだな。何のために月を眺めていたのか わからないじゃないか…。涙がこぼれないように上を向いていたのに。
 ずっと、我慢してきたっていうのに。
 「ふっ…、く…うう…」
  もう泣いてしまおう。
 アスマがカカシを連れてきたときに、取り乱さないように。今の内に全部吐きだしてしまおう。月だけが見ている夜のうちに…。
 「ナニ泣いてんの?アンタ」
 まさに吐き出そうと思った瞬間に掛けられた声は、ここに居るはずのない男のものだった。驚いてイルカは夜空に向けていた顔を 声のした方に向けた。
 目の前に立つのは銀色の髪の男。
 偶然のはずはなかった。
 アスマの話しぶりからカカシに会うのは後日だと思い込んでいたのだが 、どうやらそれまで待っていられなかったようだ。アスマは知らないことだろう。文句も言えやしない。
 「…カカシ先生…」
  かすれた声のわずかな震えに気付かれないといい。
 「やっと会えたね、イルカせんせ。アスマから伝言聞いてくれた?ゆっくりしてたらアンタ 逃げそうだったんで、ここで待ってた」
 「…あ、の…?」
 一年ぶりに言葉を交わしたせいか、どことなく以前のカカシとは違うように思えた。 端正な顔に宿る冷たい瞳は以前通りにも見えたが。
 カカシはゆっくりイルカに近付くと、右手で幾分乱暴に頬をぬらす涙を拭った。 イルカは言葉もなくその行為を見つめるだけだった。そうして腕を取られて引っ張られるままにカカシの後を着いていく。 何処に向かっているのかさえ言わないまま、二人は夜道を歩いていった。
 「カカシ先生、待って下さい。まさか、今日これから、ですか?」
 待っていたというなら、当然そのつもりなのだろう。逃げないようにと言うが、何故カカシはイルカが逃げると思うのか。 語らない男の心中をアレコレ考えてみたって仕方ない。けれども不意打ちのような、こんな状態での話し合いは出来れば避けたかった。
  第一心の準備というものが出来ていない。
 そんなイルカの気も知らずに、カカシはちらりと右目だけでイルカを見はしたが何も言わずにそのまま歩き続ける。 仕方なくイルカもそれに倣った。
 カカシはイルカの手を放さなかったので繋いだままだ。人通りがない道で良かったと、こっそり胸を撫下ろした。
  何も喋らずにいると気配だけが周囲を支配する。側にある気配だけは子供だろうと大人だろうと変わらない。同じ人間なのだから当然だ。懐かしい、カカシの気配だった。 一瞬勘違いしそうになる。ここはもう、森ではないのに。
 ふと辺りを見回すと見知った通りだった。この道はイルカの家に続く道だ。 どうやらカカシの目的地はイルカの家らしいとわかった。


 「あの、カカシ先生。こちらにどうぞ。今お茶を淹れますので」
 「気を遣わなくていーいよ。アンタに話さなきゃいけないことがあって来ただけだから」
  そう言われても返ってイルカの方が落ち着かない。
 「いえ。俺も飲みたいですし。少しだけ待って下さい。すぐに用意しますから」
  カカシの話がどんなでも、動揺しないように気を落ち着かせたかったのだ。
 「この一年は前線にいたんだ。いろんなことをじっくり考える暇のない所に 居たかったから、自分で志願した。自分の中の違和感を感じている暇の無いところにね…」
 カカシの口から出たのは、一年前のカカシ側の事情みたいな 打ち明け話だった。そんな話を自分などが聞いていいのだろうか。
 「カカシ先生…」
 「いいからしばらく黙って俺の話を聞いて?」
  カカシがそう言うのならイルカは黙って聞くしかない。
 「自分の中から何かわからないけれど、大切なものが消えていったような、そんな感覚だったんだ。 自分に覚えのない大切なものなんて、ちょっと気味悪いしそんな感情自体不必要だと思ってた。でも何て言うのかな、胸の奥の方で、 必死になってそれを捜す自分が居るんだ。意志とかとは関係のないところで…。あれが本能なんだったらぞっとしないけどね。 で、たまらなく恐くて俺は逃げ出した。何も考える暇のないところ、感じる余裕のない場所にね。それは成功したけど、今度は夢を見るようになった。 最初は断片的で、ひどく曖昧なものだったんだけど…」
 そこでカカシはいったん言葉を止めた。そしてイルカの顔をじっと見つめる。 その眼差しにどきりと胸が高鳴った。
 「夢にはね、一人の男が出てきたんだ。黒い髪を頭の上でひとつに束ねた、傷のある人なつこい顔の中忍。 俺は何故か子供でね、その中忍と森で暮らしている。しかも相当にひねたガキで、散々手こずらせるんだけど男はいつも笑って俺の相手をしてくれてた。 その男は…アンタはいつも、そんな風に俺を認めて愛してくれたよね?」
 湯飲みを持つ手が震えている。きっと顔も青くなっているに違いない。
  目の前にいるのは、カカシさんじゃない。記憶が戻るなんて、そんな可能性はないとあの情報の人も言っていたではないか。なのに。
  「どうして…記憶が…。そんなことって…」
 カカシはころんと机に赤い丸薬を転がした。それの意味するところを捕らえきれずにイルカはいぶかしげな 視線をカカシに向ける。
 「これはね、あのカカシが俺に置いていった土産です。でもどうしても飲めなかった。認めるのが恐かった…」
  「認めるって何を…ですか?」
 「アンタを好きだってことをだよ、イルカせんせ」
 「好き…?」
 カカシの言葉にイルカは目を瞠る。
  「まだ完全に思い出した訳じゃないけどね。でも多分あのカカシの気持ちは俺のものだって言える程度には思い出してる」
  そう言うとカカシはふわりとイルカを抱きしめた。
 「遅くなってごめんね。ずっとアンタを一人にしてごめん。アンタ泣き虫なのに、側にいてやれなくてごめんね…」
 抱きしめる腕の暖かさが徐々に伝わってくる。
 もうこの腕を放さなくても良いのだろうか?この暖かさを失わなくても?
  「イルカせんせ、ただいま…」
 「カカシ、さん…?本当に、記憶があるんですか?俺のこと思い出したんですか?本物のカカシさんなんですか?」
  「そうです、俺です。会いたかったよ、イルカせんせ」
 そこでやっとイルカは最初に感じた一年前のカカシとの違いに気付いた。
  言葉使いだ。別れたときには、もっとずっと他人行儀で冷たい話し方をしていた。なのに今は森で共に暮らした頃の言葉使いに戻っている。 「イルカせんせ」と言うカカシの口調にも親しみや愛着が感じられるのは気のせいではないはずだ。
 カカシが自分の名前を呼ぶ。
  そんなことが再び起こるなど夢にも思わなかった。いや、夢でしかないと思っていた。だがこれは、れっきとした現実だ。
  ああ、カカシだ。あの森で共に過ごしたカカシだ。イルカは背に回した腕に力を込めた。
 「俺もっ、俺も会いたかったです。お帰りなさい、カカシさん…っ!」
 話したいことは沢山ある。離れていた間のことや、子供達のこと。
  それにコレが一番言いたいことだったが、あの時何も言わずに姿を消したことへの恨み言。泣き笑いの表情でそう言えば、カカシはちょっと困った顔をして耳元で囁いた。
  ちゃんと聞きますよ。だけどね、イルカせんせ。その前にすることがあるでショ、俺たち。
 そうしてイルカにキスをしたのだった。