本当の恋人





 洗いざらしのシーツの感触が火照った肌に心地良い。このまましっとりとした優しい微睡みに身を沈めていたい。けれどそれを引き留めるかのように、背後の男が「イルカ先生」と自分を呼ぶ。
「ねえ、寝ちゃったの?イルカ先生…」
 起きてはいたが、男に答える気はなかった。
「イルカ先生…」
 高すぎず低すぎもしない張りのある男の声が、イルカの名前を呼ぶ。それがとても好きだった。あの声に初めて名前を呼ばれたときの感動を、今も覚えている。

 付き合う切っ掛けは男からのアプローチだった。
 最初は軽い挨拶をする程度。その後、時々飲みに誘われるようになり、それが当たり前の日常になった頃「付き合って下さい」と言われたのだ。
 男の芳しくない噂はイルカも知っていた。
 けれどもその時のイルカには、そんな所まで考えが及ばなかった。名前を呼ばれ、愛してます、アナタが一番好きですと囁かれて、有頂天になっていた。
 今から考えれば愚かなことだ。
 一番好きという言葉の裏には、二番・三番があるという事なのに。
 ずっとイルカは男に憧れていたから。話をするようになり、より親しくなっていく過程で、その想いは当然のように恋に姿を変えていった。幸福に目が眩んで、何も見えなくなっていたのだろう。
 だからあの男の…はたけカカシの言葉を、ただ単純に受け止めて喜んでいた。

 数多の情人の一人に過ぎないと知ったときは、足下から世界が崩れていくような目眩に襲われた。
 カカシの言葉は決して嘘ではない。
 優しいし大事にしてくれる。愛のささやきもきっと本気で言っているのだろう。けれどそれは、大勢に向けられるものと同等の価値しかない。自分だけに向けられた物でない以上、どんな価値もないのと同じだ。
 たった一人にはなれない。どうあがいても……。
 そうと分っていても、イルカは自分からカカシと別れようとは思わなかった。だって好きなのだ。傍にいられるだけで、震えるほどに嬉しいのだから。


「…いま、何ておっしゃいました?カカシ先生」
「結婚するかもって。まだ決定じゃないですけどね」
 あまりに普通に喋るカカシに、イルカはいっそ冗談じゃないかと思ったほどだ。
「結婚…。あの、火影命令って…」
「子供をつくれって言われたんですよ。ま、それも上忍の義務だしね。嫌だって突っぱねるわけにもいかなくて」
 子供!ぐらりと身体が揺れるのを感じた。それは確かに有り得る話だ。カカシほど優秀な忍びの子供なら、どの一族もこぞって欲しがるだろう。
「…受けられたのですか?その話」
 だとしたら、もう傍にさえいられない。泣いて取り乱さない自分が、むしろ不思議なくらいだった。
「いいえ〜。返事はまだです。イルカ先生はどう思う?やっぱり受けるべきですかね、一応義務だし。里のためになるし?」
 よくそんな事が聞けるものだと思う。今までの自分は、カカシにとって何だったのか。
「…カカシ先生が、お決めになることですよ」
「だって恋人でショ。何か言うことはないの?イルカ先生」
 ではその恋人に向かって「結婚するかも」などと言うアンタは何なんだ。
「結婚されるのでしたら、俺はもう…」
 カカシの傍にはいられない。いる場所もない。そう続くはずのイルカの言葉を遮って、カカシが割り込んだ。
「言っとくけどね。俺はアンタを手放す気はないかーらね」
 無神経なその一言にイルカは硬直する。カカシの気が知れない。
「何を…言って…。そんなの俺は嫌ですっ!そんな…」
 声が震え出すのを必死で我慢しながら何とか抗議しようとする。しかしその声はか細かった。
「だってねえ、イルカ先生俺のこと好きでショ?俺もです。ずっと一緒にいたいくらいアンタの事が好きなんですよ」
 カカシの言葉にイルカは弱々しく首を振る。カカシの事は好きだ。だけどカカシの言葉は……信じられなかった。
「ひどいです、そんなの。子供はどうなるんですか!相手の女性は?それに俺だって、そんなの…っ!」
「落ち着いてよイルカ先生。まだ子供なんかいませんよ、女もね。そういう話があるって言うだけ。だから恋人のアンタの意見が知りたくて、どうしましょうって相談してるんでショ」
「………っ!!」
 どう答えればカカシは気に入るんだろう?カカシが何を考えているのか分らない。
 おめでとうと心を殺して祝辞を述べればいいのか。そんなの許さないと世間の恋人達のように怒ればいいのか。どっちにしろ、カカシは自分の思う通りにしかしないだろう。イルカが何と言っても、その意見をカカシが受け容れるとは思えなかった。
「何考えてんのイルカ先生?俺に言いたいことあるんでしょう?この際だから言ってみなさいよ。心の中にしまい込んでいるモノを全部出しなさいよ」
 イルカはぎゅうっときつく拳を握る。
「何を…?何を言えと言うんですかカカシ先生。どうせアナタは、自分の思うとおりにしか何もしないくせに…っ」
 カカシはそれにくすりと笑いを浮かべて「卑屈ですねえ」と投げかけた。意図した物か、それともただの無意識か。だがその言葉は、確実にイルカを傷つけた。
「じゃあ俺が結婚して子供もつくる。でもアンタは放さないって言ったら、アンタは言うとおりにするの?それが俺の望みなら?」
 無茶を言う。そんな出来もしない事を。
 カカシほどの忍びなら、相手もきっと一流どころが揃えられるはずだ。血筋やら器量やら能力やら。そんな厳選された女が、イルカの存在を許すはずがない。結局傍に居たくとも居られないのだ。
 何も言えずに俯くイルカに、カカシはふうと息を吐いた。
「あ〜、もう!そんな顔しない!この話は本当に火影様から言われたことなんですよ。でも俺はその場で断りました。だってアンタがいるのに、好きでもない女と子供を作るためだけのセックスなんて冗談じゃないよ」
「……え…?」
 急にさっきと違う事を話し始めたカカシに、イルカは戸惑う視線を向ける。カカシは銀色の髪を手でくしゃくしゃと混ぜながら、ちょっと意地悪をしましたと謝った。
「話があったのは、さっきも言ったけど本当です。すぐに断ったけど、これを聞いてアンタがどういう反応をするか知りたかったんです…」
「俺の反応って、どういう意味…」
「だって。イルカ先生いつも何も言わないから。俺の噂を知ってても怒りもしないし焼き餅も焼いてくれない。もしかしたら俺が上忍だから、仕方なく付き合ってくれてるのかなと不安だったんです」
 噂…もちろん知っている。でもカカシに自分以外の情人がいるのは、噂ではなくて事実だろう。イルカと付き合い出す前からいるのなら、今更怒ることも出来ない。第一そんな事をして、嫌われるのも辛かった。
「あ、それね、嘘です。アンタに告白する前に、女とは全部手を切りましたから」
「…はあ?」
「アンタには本気だって事です。でもいつまで経っても、アンタは俺に何も言ってくれなかった。我儘でも甘えてくれるのでも嬉しかったのに。いつも一歩離れたところからしか接してくれなかったよね」
 …それは自分に自信がなかったから。カカシに他にも情人がいると知って辛かったから。
「もしかしてアンタはそれほど俺のことが好きじゃないのかな、とか色々変な風に考えちゃってね。火影様から話を貰ったとき、これはチャンスだって思ったよ。アンタの本心がこれで分るかもって」
 なのにアンタは「決めるのはカカシ先生です」とか言って、怒りもしないんだからね、とカカシは少しだけ顔を歪めた。
 そんなカカシの告白をイルカは驚いた表情で聞いていた。
 じゃあ何か?自分たちは両想いなのに、変な誤解から随分と遠回りしてしまったのか。怖がらずに情人がいると分った時点でカカシに問いただせば、ここまで誤解が重なることもなかったのだろう。なんてバカなんだとイルカは思った。

「カカシ先生、俺のこと本当に好きですか?」
 カカシが正直に打ち明けてくれたのだから自分も言おう。怖がってないで。
「もちろんですよ。アンタが一番好きだよイルカ先生」
 カカシが最初に呼んだあの「イルカ先生」と同じ響きだった。カカシは最初から何も変わっていなかった。受け取る側の自分の弱さが、そう思わせただけだった。
「あの、俺も好きです。カカシ先生の、たった一人になりたいんです」
 他の人は見ないで!
「ずっとアンタだけですよ。分ってなかったんだね、イルカ先生…」
「はい、ごめんなさい…。好き…カカシ先生…好きです、大好き…」
「もちろん俺もです。ねえイルカ先生、教えてよ。俺に女がいると知って、本当は怒ったの?」
 そんなの当たり前だ。
「…怒ってました。というか、嫉妬してました。でも俺もその他大勢の一人なんだって思ったら、怒るより悲しかったです」
 イルカの歩み寄りにカカシはいたく満足する。やっとこれで本当にイルカを捕まえられた。後は誰が何と言おうが、イルカを放したりしない。
「ごめんね。イルカ先生を悲しませるつもりじゃなかったんだけど。でも俺はすごく嬉しいです。アンタの本心が聞けて」
 少々やに下がったと言う感じのカカシに、ちょっとイルカも恥ずかしくなってまた憎まれ口を叩いてしまう。
「どうせいつもは素直じゃありませんからね!」
「怒っているイルカ先生も可愛いですね〜」
「かっ、可愛…」
 かあーっと一気に赤くなる。そんな風に言われたことは今までなかった。
「あ、そういう顔も新鮮ですねvうん、やっぱり可愛いねイルカ先生」
「………」
 はて、カカシはこんな人だったろうか?とイルカは首を捻る。もっとクールで冷めた感じの人だったのに。睦言は確かに甘いけど、普段はベタベタするような人ではなかった。
 でもいま目の前にいるカカシは、イルカを抱きしめながらにこにこと笑っている。とても幸せそうに。
「カカシ先生、いつもとイメージ違ってませんか?」
「ああ、これ?もう取り繕わなくても良くなったしね」
 コレが本当の俺です、とカカシは相変わらずイルカにくっついたまま宣った。
「ほ…本当の俺ってなんですかっ!!」
「だからね。イルカ先生の思ってる”はたけカカシ”と、現実の”はたけカカシ”は違うんですよ。アンタだって、俺の前と本来のアンタではやっぱりちょっと違うでショ」
 アンタの前では、カッコイイ”はたけカカシ”でいたかったんです。
 カカシの言うところは何となく分る。イルカだって、カカシの前では随分と自分を取り繕っていた。聞き分けのいい恋人という役を演じていたのだ。

「やっとこれで本当の恋人だね」
 ああ、なんていい響きだろうとイルカは思った。
 いつかカカシに飽きられて捨てられるかも知れないと、そんな事におびえてい自分が信じられない。
「浮気は許しませんよ、カカシ先生」
「しませ〜んよ、そんなの。イルカ先生がいればそれでいいんです。アンタこそ!」
「俺だってそうです。最初からアナタだけしか見てませんでした」
「うん、それでいいです。一緒に幸せになりましょうね」
 人の事を謀っておきながら「一緒に幸せに」もないもんだと、イルカは思わずその図々しさに吹き出しそうになった。
 けれどもとてもカカシらしいとも思う。
 きっとこれから自分は、うんと幸せになれるだろう。