花に嵐 3


 

 政宗の登場はなごやかだった剣道場の空気を一変させた。

 剣道をやっているものであれば、かつて全国を制した「西海の鬼」長曾我部元親や「独眼竜」伊達政宗の名は知っていて当然だ。 元親が優勝した2年前、これ程の実力を持った選手は10年に一人だろうと囁かれた。元親が際だっていたのは事実だし、当時彼に迫るだけの力を持った有力選手も 見あたらなかった。それで元親の二連覇は確実だろうと誰もが確信していた。
 ところが去年、蓋を開けてみれば元親の姿はどこにもない。 まさか地区で敗退したのかと関係者は色めき立ったが、どうやら試合にすら出ていない事が判明すると安堵と共に恐慌に陥った。 長曾我部元親は剣道界を背負って立つ逸材だったから尚更だ。
 しかし結局元親は剣道界から姿を消し、その理由は詳しく語られなかった。
 それ故、翌年政宗が全国を制した時、確かな実力があったにも拘わらず、不穏当な陰口が付きまとう事になったのだ。


 曰く「この大会に西海の鬼さえ出場していれば、独眼竜の優勝はなかった」


 当然その噂は政宗の耳にも入ってきた。
 プライドの高い彼が、その噂をどう捕らえたかは想像に難くない。
 実のところ、政宗の心中は誰が想像するよりもずっと複雑だった。政宗にとっての元親は、憧れでありライバルであり、それ以上に自分を苛立たせる存在であった。 気に掛けたくないという理性と、しかしどうしても気になってしまう感情と。一体何故これほど元親に対する執着を感じるのか、政宗でさえはっきりと掴めていないのだ。


 一方で元親は、むしろ単純すぎるくらい単純だ。
 政宗の剣に惹かれた。目が離せないくらい惹き付けられた。それだけで政宗に傾く気持ちの理由は十分だった。


 だが、とにかく当事者でない者にとって、この二人は「因縁」のある者同士と映るのだ。
 その因縁の二人が、よりによって同じ学園に入学する事になろうとは誰も想像出来なかった。そもそもこの学園自体、文武両道を掲げているものの剣道では 全国区で有名という程ではない。東西の雄が選ぶだろう高校のラインナップに名前さえ挙がらなかったのだから、関係者にしてみれば当然驚きを隠せなかった。
 






 ピンと張り詰めた空気が剣道場を包む。
 元親と政宗がついに顔を合わせたのだ。恐らく元親よりも政宗の方が、より相手に対する意識は強かっただろう。 その証拠に政宗の鋭い視線は一瞬たりとも元親から外れなかった。ただ言葉もなく見つめ合うだけなのだが、二人の間には誰も割り込めない空気が漂っていた。
 だがここに強者が一人。
 その場に漂う雰囲気を物ともせず、果敢に政宗に声を掛ける男が居た。
「政宗殿!お久しゅうございまする!」
 張り詰めた緊張感が一気に粉々に砕けた。
「…Ah, 真田幸村、あんたか…」
 気が抜けるぜ、と小さく呟いて政宗は剣呑な空気を収めた。同時に元親もピリピリした気配を引っ込める。 周りは一様にほっと胸を撫で下ろしたのだった。
 政宗は気を取り直して元親に向き直る。
「アンタの事は随分前から知ってるぜ、西海の鬼。 去年は肩すかしを食らったが、その分今年は楽しませてくれよ?」
 政宗から剣呑な気配が消えた事で、元親も肩の力を抜いて、その言葉におうと応えた。 政宗と仕合いたいのは元親も同じだ。二年前に見た政宗は、荒削りの抜き身の刀だった。去年の政宗は、直に見た訳ではないが磨き抜かれた銘刀に変わっていた。 今年、これからの政宗はどう変わっていくのか…。それを間近で見られるのは僥倖とも言えるが、少し怖い気もした。何しろ政宗と違い、 元親は自分がこの二年で成長したとは微塵も思っていないのだから。
 元親は二年前から公式戦に出ていない。それどころか部活にさえ出ていなかった。 自分で竹刀は振っていたが、それでレベルが下がる事はあっても上がる事はない。例え現状維持が出来ていたとしても、 二年間成長した政宗とでは自分に勝ち目はないだろうと冷静に分析した。


 それでも、と思う。
 初めて見た時からずっと、自分を魅了して止まなかった男だ。例え敵わなくても仕合いたいと思うのは、どうしようもないのだ。 我儘なのは十分承知の上だった。


「政宗殿は元親殿をご存じでござったか?」
 唐突に問われて、元親にだけ向いていた視線がふっと和らいだ。幸村にはそんな雰囲気が確かにある。
「ああ、まあな。二年前に試合を見ただけだが…」
「二年前でござるか?某が政宗殿とお会いした頃でございますな」
 へぇと幸村を見る。 そう言えば随分親しそうに政宗を語っていたけど。二年は短いようで長い。そんな時間を政宗と共有出来た幸村を、元親は少し羨ましく思った。
「二年前に見たアンタの剣が忘れられなかった。あの時からアンタは俺の目標…、いつか倒す最高の敵だった」
 その一言が元親をどれだけ喜ばせるか、 政宗はわかっているのだろうか?
「俺もお前の事覚えてるぜ?尤も二年前しか直接は見てねえが。いつか、って俺も思ってた」
 その言葉が政宗に何を与えたのか、元親にはわからない。だが元親を見つめるその瞳に、言葉になりきらない強い感情が閃いていた。
「伊達…?」
 意識した訳ではないが、問いかけるような口調になった。
「……アンタ、俺の事知ってたのか?!」
 呆然と政宗が呟く。
「あ?そりゃあ独眼竜っていやあ有名だかんな。いくら四国が田舎だからって、そのくらいの情報は入ってくるぜ?」
「NO! そうじゃねえ!アンタ、いま二年前って…っ」
 それに、いつかって、そう言った。
「俺と戦いたいって、そういう意味か?」
 政宗の手が元親の両腕をがしっと掴む。
(……いっ、痛…っ!)
 だがここでこの手を振り払う気にはならなかった。
「お前を初めて見た時な。 全国大会の時に、俺の次の試合まで時間が少しあってよ。せっかくだから観客席から見てたんだけど、そん時にちょうどお前の試合だったんだよ。 あの時はまだ荒削りだったけどよう、もうすげえって思ってお前から目が離せなかったんだぜ」

 去年、独眼竜が全国を制覇した時は、ああやっぱりって別に驚かなかったぜ?お前の事はその前から買ってたからよ。尤も決勝で戦う相手が何で 俺じゃねえんだとは思ったけどよう。


 そう笑う鬼はとても魅力的で。
 意識してたのも認めて欲しかったのも自分だけではなかったと知って、政宗は心が震えるのを感じた。
「つまり、好敵手という事でございますな!羨ましゅうござる!某もぜひお仲間に入りとうございますぞ!」
 二人の出会いのエピソードを聞き、 勝手にウキウキと思いを馳せる幸村に、誰もあえて突っ込まなかった。全国区の二人とは天と地程に実力差があり、そもそもまともな打ち合いにすらならないだろう、とは。 だが、幸村の運動神経は並はずれており、これからの鍛錬如何では幸村にもそのチャンスは十分あるのだと政宗は知っていた。




「てめえら、何をさぼってやがる!ここはいつからお喋りサークルになったんだ!さっさと素振りなり打ち合いなり始めろ!」
 いつの間に道場に来たのか、顧問の片倉が入り口付近から怒鳴った。元親と政宗を中心にして話に夢中になっていたせいで、顧問が来た事に誰も気付かず、 結果雷が落ちる事になった。片倉の怒鳴り声は心臓に痛い。それでなくても迫力のある見た目に加えて、かなり低めのいい声なのだ。声量があると言うのだろうか。 怒鳴られるたびに生徒たちは確実に寿命を縮めていそうな感じだ。
 ただ政宗だけは慣れのせいか平然としている。そして幸村も同じようにビビるでもなく にこにこしていた。見かけからは想像出来ない肝っ玉だと、元親は変なところで幸村を見直すのだった。
「Hey, 小十郎。あんまり先輩方をビビらすんじゃねえよ」
 軽口を叩く政宗をジロリと睨んで、ここでは特別扱いは致しかねますぞ、と返した。 どうやら佐助が言っていた事は本当らしい。






 三時間程びっしり汗を掻いて、元親はようやく竹刀を下ろした。やはり随分体力が落ちている。目聡い片倉もすぐにその事に気付いたようだった。 予め個人に合ったメニューを用意していたようで、元親にも配られていたがそれにあっさりと修正が加わった。
(とりあえず基礎体力作りがメインね。 まあ仕方ねえか)
「休憩の後はそれぞれ指示されたメニューを一通りやって終われ。一年は後片付けも忘れるな。主将、周りをよく見てろよ」
 どうやら片倉はここまでで、後は主将に任せるらしい。主将ははいと返事をして、休む一同に同じ言葉を繰り返した。
「も、元親殿、大丈夫でござるか〜…?」
 さすがの幸村もヘロヘロだ。片倉は実に個人の能力をよく把握しているらしい。視線を転じると、やはり隅の方でうずくまっている政宗を見つけた。 他の一年はみんな大の字になってへばっているから、そうなっていない辺りはさすがと言うべきか。
「バテた…、あのおっさん血も涙もねえな」
 すっとよく冷えたスポーツドリンクが目の前に差し出される。
「話せるだけ凄いと思うよ。他の一年はすっかりダウン、二、三年だってへばってるのに」
 マネージャーだった。幸村は嬉しそうにそれを手に取るとごくごくと喉を鳴らした。元親も有り難く受け取る。開け放たれたドアから入り込んだ春の風が頬を撫でていく。 慣れ親しんだ潮の香りこそ含んでないが、元親はそれを心地よいと感じた。幸村も同じように春の風を受けながら、これ程充実したのは久しぶりだと実感するのだった。
(お屋形様に稽古を付けて頂いた時のようでござる)
 そんな雰囲気をぶち壊すように、幸村のお腹がぐうっと鳴った。
「…………」
「…ははは、某、腹が減ったでござる」
「…大物になるよ、幸村よぅ…」
 幸村にとっては動けば腹が空くのは当然の事で、こういうのも日常茶飯事なのだろう。 あっけらかんと言い放つ。元親は苦笑しながら、じゃあ帰りに何か食ってくかと問いかけた。幸村は子供の余蘊亜笑顔で大きく頷くのだった。
「政宗殿、政宗殿もご一緒しましょうぞ!」
…「あ?俺が?」
 思いも寄らない誘いに政宗の表情が一瞬崩れる。
 あ、なんだ年相応の顔も出来るんじゃねえか、と元親は口元を綻ばせた。
「そうだなあ、お前も来いよ独眼竜。俺は出てきたばかりで、 この辺りは全然詳しくねえからよ。お前ら二人で教えてくれりゃ嬉しいな」
「おお、それはよい考え!某、張り切ってご案内致しますぞ!」
 瞳を煌めかせる幸村とは対照的に、政宗は眉を顰める。何で俺が、と言いたそうだが元親は気にせず自分の意志を通した。ふと、他の一年も誘うべきかと顔を上げると、 やや遠巻きにしていた新入生たちが一斉に首を横に振った。元親はともかく、そこに政宗も居るとなれば相当な緊張が強いられる。 そんな場所で食事をしたって食べた気にはならない、むしろ絶対ごめんだと訴えていた。
(ま、しゃあねえか)
「休憩終わりーーー!後はメニューに従って一通りやって終われ!」




 こうして元親の部活一日目が終わった。