庭の奥の木に鳥の巣があって、これは梵天丸と喜多と小十郎の内緒の場所だ。
生まれたばかりの雛が親鳥から餌を貰うのを見るのが、梵天丸のお気に入りだった。
その秘密の場所に、今度千翁も連れて行ってやろうと思う。きっと気に入るはずだ。雛は可愛いし親鳥は甲斐甲斐しい。
その光景を見れば花が綻ぶように笑ってくれる。
そんな笑顔がきっと千翁には似合う。寂しそうな顔よりもずっと。
千翁丸の手を取った梵天丸はそう心の中で呟いた。
繋いだ手から温もりが伝わってくる。
千翁丸は自分の手を取って歩く若様を興味深く見つめていた。
(千翁の包帯のこと、聞かなかった…)
それは、気にするほどの事ではないと思ったからなのか、それとも気を遣ったからなのか、そこまでは分からないけれども。
このへんてこな髪の色や顔の半分を覆う包帯に訝しげな視線を寄越さなかった子供は梵天丸が初めてだった。
それだけで千翁の心に、ふわんとした思いが生まれた。
(母様に疎まれた千翁でも梵天丸様なら受け入れてくれるかしら?いてもいいと言ってくれる?)
翌日、やはり千翁の手を引いて梵天丸は鳥の巣に案内した。
親鳥と雛を見た千翁が思わずポロリと涙を流すと、梵天丸は大層慌てて慰めてくれた。
その手が、気持ちが、とても嬉しくて涙が止めどなく溢れる。そのせいで酷く狼狽させてしまったけれど、千翁は故郷を遠く離れた見知らぬ土地で、
ようやく安心して息をつける場所を手に入れたのだった。
「千翁はずっとここにいればいい。俺の側に」
梵天丸は千翁が欲しかった言葉をいつもあっさりと渡してくれる。
「はい、ずっとお側におります」
「いずれ俺は伊達の頭領になる。
そうしたら近隣諸国を制して奥州を纏め上げる。奥州の王になる。その時もきっと千翁は俺の側にいろよ」
梵天丸が語る未来は夢物語だ。
少なくともまだ子供である千翁にはそう思える。
しかしそれはキラキラ光る綺羅星の如き夢であった。
(梵天が言うならきっとそうなる)
それほど言葉には力があった。
けれども人の未来は誰にも分からない。決して離れないと誓った二人が、結局は離れ離れになってしまうのである。
「嘘だ!千翁がいなくなるなんてっ!離せ、喜多っ!千翁を追いかけるっ!!」
暴れる梵天丸を喜多と小十郎が押しとどめる。
「なりません、若様っ!それに千翁丸殿は今朝早くにここを発っております。今から追いかけても、もう…」
それでも喜多の手を振りほどこうとする梵天丸を、喜多はぎゅうっと抱きしめるのだった。
千翁丸の母親が危篤だとの知らせが入ったのは深夜のことだった。
すでに寝入っている子供をそうっと起こして伝言を伝える。
子供は悲しそうな顔でそれを聞いていた。その知らせが自分に何を強いることになるのか、すでに悟っていた。
千翁がどう思おうと運命はすでに梵天丸との離別を選択したのだ。
故郷に戻るのに否やはない。元々好きで離れた訳ではないのだ。
けれども遠く離れたこの地で子供は運命に出会った。
この出会いの為にこそ、あの事件があったのかとさえ思ったのに。再び運命はこの手からすり抜けていくのだ。
「梵天はきっと怒る」
「千翁丸様…」
「怒って悲しんでまた怒って…」
ほんの数ヶ月。たったそれだけだ、一緒にいたのは。
けれども梵天丸の気性を知るには十分な時間だった。
「話せないね。話してしまっては千翁が梵天から離れたくなくなる。
だから、何も言わずに…会わずにいなくなるしかない」
嫌われるのは身を切るほど辛いけど。
「喜多、これを梵天に渡して」
鮮やかな色彩の眼帯は梵天丸が千翁丸に贈った物だ。着物と揃えて一から選んで誂えたのだ。絹で織られたそれは千翁の白い肌や髪の色にそれは映えた。
きっとまた会える。だからこれを持っていて。千翁を忘れないで。
本当はそう言葉で伝えたかった。
けれども言葉は呪だ。
言葉を残せばそれに囚われてしまう恐れがある。
梵天丸にそんな物は残したくなかった。
「千翁丸殿、お言葉がなければ若様は誤解なさいます。どうか…」
しかし千翁丸はゆるりと首を振って奥州を後にした。
ななつの秋のことだ。
梵天丸が追いかけてくることはなく、文も一度も届かなかった。
千翁丸が四国に戻った時、母親はすでに昏睡状態でほどなく天に召された。母親の枕元で千翁は少しだけ泣いた。
母親の為の涙か、それとも離れてしまった梵天丸への涙なのか、千翁丸にもわからなかった。
終 (ペーパーに載せた梵姫の続き、みたいな…)