◇◆◇鍵の在処◇◆◇
差し出された手には鍵がひとつ。
差し出したくの一は黙ってこそいたが、その目は雄弁に語っていた。
―――アンタナンカ、カカシ上忍ニハ釣リ合ワナイワヨ。
―――サッサト身ヲ引キナサイヨ、生意気ナンダカラ!
―――ドウセ物珍シサカラ、カマッテイルダケヨ。イイ気ニナラナイデ。
イルカだとて意味もなく他人に喧嘩を売ったりはしない。元々は穏便な性格なのだ。
けれども半年前に銀色の上忍と付き合いだしてからは、そんな悠長な事は言っていられなくなった。何故ならこの半年の間、銀色の男がつまみ食いをする度にその相手のくの一から、謂われのない攻撃やら陰口やらをひっきりなしに受けてきたからである。
いい加減イルカも切れる。
つまみ食い扱いされた女達が怒るのは無理もない。けれどその怒りはカカシ本人ではなく、イルカに向かうのだ。その理不尽さは呆れかえる程だ。
その度にイルカは我慢してきたが、それにも限界がある。女達と真剣に争う気はないが、それでも腹に据えかねる事というのはあるのだ。
睨むくの一ににっこりと余裕の笑顔を見せて、イルカは鍵を受け取った。
「わざわざすみません。今後こういう事のないようにしっかり釘をさしておきます」
言外にカカシに文句を言う事の出来る自分をアピールしてみる。ピクリと眉を上げてくの一は「よろしくね」と一言を残して消えた。ふう、とイルカは息をつく。毎回毎回心臓に悪い。ストレスも溜まる。そろそろカカシにも責任を取って貰う頃かもしれない。
夜になってカカシが帰ってきた。
カカシが持っているべき鍵がここにある以上、当然ドアは開けられない。最初は控えめに、それでも開かないドアに、次はもう少しだけ大きいノックの音が聞こえてきた。
「イルカ先生〜、いるんでしょう?開けて下さいよー。俺、鍵をうっかりなくしちゃって〜」
いかにも呑気な調子のカカシの声がノックに続いた。
…うっかり?…なくして?
それで通ると思っているのか、この人はっ!鼻息も荒くイルカはドアを開けた。
そのイルカの形相に、カカシは何やら不穏な気配を読み取った。
「えーと、イルカ先生。…タダイマ…」
「お帰りなさいカカシ先生。ちょっとお話がありますので、とにかくこちらに来て下さい」
カカシは行きたくなかった。大好きなイルカと共に過ごすこの時間は大切だが、今はすごい困難が降りかかりそうでたまらなく嫌だった。それでも有無をも言わせないイルカに逆らえず、居間に腰を下ろす。
机に鍵が置かれていた。しかも見覚えのある。
「あれ…?これって…」
もしかして自分が無くした鍵だろうか?なんでここにあるんだろう?
本気で首を捻るカカシにイルカは再び深い溜息を吐いた。
「先程、綺麗なくの一の方が持ってきてくれたんですよ…」
その言葉の意味を悟った上忍は、見事なまでに顔色を変えた。
「あっ、あのっ…イルカ先生…、あのですね、ええと…それは落として…」
落とし物をくの一が届けてくれただけなのだとしたら、どうしてそこまで狼狽えるのか。全くもってみっともない。浮気するなら、最後まで自分の行動にも責任を持て。
「へええ?落としたんですか。そう。で、何処で落としたんです?そもそも何処に入れてあったんですか?」
「えっえっ…入れてあったのはウエストポーチだけど、何処で落としたのかは…。あの、落としたのにも気付かなかったくらいだから〜あはは」
へえ、ウエストポーチ。腰に巻いてるポーチに入れてあったもんが、どうしたら落ちるってゆーんだ!それはもう、相手のくの一がわざと抜いたに決まってるだろうがっ!
「じゃあ、わざわざ拾って届けて下さった方にお礼くらいしないとね」
「おっ俺がします!俺の落とし物ですから!明日にでもきちんとっ…」
「そうですか。ではカカシ先生にお任せしますね。でも名前も聞かなかったんですが、カカシ先生は相手の方が誰かちゃんと分ってるみたいですねー」
このくらいの嫌みは許されるだろう。
案の定、ピキンとカカシは固まった。じゃあ俺はもう寝ますから、と言ってイルカはさっさと寝室に引き上げた。何を言おうとカカシを部屋に入れるつもりはない。当然のお仕置きだ。ざまあみろ、はたけカカシめ!
そこまで考えて、イルカはどっと疲れを感じた。いつの間に自分はこんなにスレてしまったのだろう。自分で言うのも何だが、昔はもうちょっとは可愛らしい性格をしていたはずだ。いや、可愛らしいというか、純情?純粋?どっちにしろ、くの一相手に男を取り合う日がくるとは思ってもいなかった。
遠くの方で「イルカせんせい〜」と情けない声が聞こえたがそれも綺麗に無視した。
そろそろ考え時かも知れないな。
翌朝は珍しくカカシは早起きをした。と言うか、イルカが気になってよく寝られなかったと言うべきだろう。それは分ったがイルカの気はまだ収まっていなかったので、カカシのもの言いたげな顔すら無視して取り合わなかった。一応朝ご飯の支度はしてみたが。
「じゃ、俺はアカデミーに行きますから出るときはちゃんと戸締まりお願いしますね。今度鍵無くしたら問答無用で取り替えますから」
「イ…イルカ先生…」
はたんと閉めたドアの音がやけに響いた気がした。
アカデミーで黙々と仕事をこなしてようやくお昼になる頃、やっとイルカは一息吐いた。そうして朝の態度をほんの少しだけ反省した。
「いつもの事とは言え、やっぱりちょっと大人げなかったよな…。よし、今日の夕飯はカカシ先生の好きな物作ってあげよう」
こうやって結局有耶無耶の内に許してしまうのが、カカシの浮気を増長させているのだとは分っているのだが。しょんぼりと項垂れるカカシの姿を見ると、ついほだされてしまうのだから始末におえない。
午後からは受付の仕事が入っていた。
引き継ぎをして席に座ると、隣の同僚が話しかけてきた。
「さっきカカシ上忍が来てたぞ。任務ちょっとややこしそうな奴だったぜ?」
「え?」
任務が入っていたなんて聞いてない。
「聞いてないのか?」
「あ、いえ…まあ…」
まさか女のことで喧嘩して話してませんなんて言えるはずもない。
任務の内容を見ると、どうやらBランクの護衛らしい。火の国の豪商達が他国に向けて出す品物の護衛。商隊の荷は多岐にわたっていて、食料から衣料、材木、果ては宝飾品まで。狙ってくれと言っているような品揃えだった。それらを一小隊が守るというものだ。
送り先は雷の国。途中で襲われる可能性は大きいだろう。
「…ふう」
これは2・3日で終わる任務ではない。喧嘩したままというのが気になったが、カカシ以外のメンバーもそれなりの経験を積んだ中忍達だ。必要以上に心配する事もあるまい。
ガラっとドアが開いて、任務から帰った忍び達が報告書を提出に来た。それにイルカは「お疲れ様です」といつも通りの笑顔で迎えた。
カカシの任務はそれ程の困難にぶつかりもせず、さりとて何の支障もなくとまではいかず、要するに最初に想定したそこそこの襲撃を受けつつもしっかり荷を守りながら雷の国に入った。ここまで来ればもう一息だ。怪我人もなく、奪われた品もない。
新たな温泉地を開くというその場所に向けて、商隊は順調に進んでいった。
「へえ〜、ここに新しい温泉町が出来るのか」
「ええ、いい源泉が見つかりましてね。雷の国は温泉で有名ですが、ここはその何処よりも質が良いんですよ。ですからきっと、ここも繁盛します。いや、させてみせますよ」
荷を受け取る男達は、この温泉町をこれから造っていく温泉宿の主人達だ。夢を語る目はキラキラと輝いている。護衛をしてきた忍びたちも、荷を運んできた商隊の男達も、なんとなく嬉しい気分になる目だった。
「いいですね〜。俺の知り合いにも温泉が好きな人がいるんで、ここが開業したらぜひ寄らせて貰いますよ」
カカシはイルカの顔を思い浮かべた。それに温泉宿の主人達は相好を崩す。
「それは嬉しいですね。ぜひ、いらして下さい。サービスいたしますから」
帰りは奪われるべき荷もない。商隊の連中は途中の温泉宿でゆっくりしていくらしい。最初から片道だけの護衛の約束だったから、カカシ達はそこで商隊と別れた。
「ま、帰りは急ぐ必要もないでショ。奪う物がないから襲撃されることもないしね。ゆっくり帰ろうか」
「カカシ上忍はでも、早く里に帰りたいんじゃないですか?」
カカシに隠す気がないから、カカシとイルカの事は里でも知られている。
中忍の言葉に、そういえばイルカとは喧嘩したままだったことを思い出す。何も言わずに、というか言えないまま出てきたが心配しているだろうか?でも多分受付でカカシの任務内容は知る機会があっただろう。2・3日で終わる任務でない事も分っているはずだ。
「う〜ん、多少長く掛かる任務だって分ってると思うか〜らね。いいよいいよ、ゆっくりで」
「だったら今日だけでも俺たちも温泉宿に泊まっていきませんか?雷の国の温泉は有名ですからね。せっかく来たんだし話の種にひとつ…」
「お前なあ〜。いくら何でもまずいだろう、それ…」
「ええ?いいじゃん。任務は終わったんだし、ちょっとだけ…」
「どうしますか、カカシ上忍…?」
聞く中忍の顔も期待を含んでいる。やれやれと思いながら、カカシはひとつ頷いた。
「ま、いいでショ。明日の朝1番に出発。それまでは自由って事で。だけど羽目ははずすんじゃな〜いよ、お前ら」
「一週間…。いくらなんでも、もうそろそろ帰ってくる頃かな…」
アパートの前にぽつんと一つの影があるのが分った。一瞬カカシかと思ったが、それならアパートの前で待っているのはおかしい。訝しみながらも近付くと、カカシの鍵を届けたくの一だと分った。
「…なんのご用でしょうか?」
「分ってるくせに。いい加減カカシから離れて欲しいのよ。あなたとじゃ釣り合わないって事くらい、言われなくてもわかるでしょう?」
…悪かったな、釣り合わなくて。どうせ中忍ですよ。
「それはアナタから言われる筋合いではないでしょう。カカシ先生本人に言われるならともかく」
「カカシは優しいから1回でも好奇心で手を付けた相手には、そんな事言えないのよっ!」
「そんなわけないでしょう?あの人の何処をどう見たら、優しいなんてセリフが出るんですか…」
どうやらこのくの一もカカシの見かけに騙されたクチらしい。
確かにカカシは行為の最中はとても優しい。うっとりするような愛の言葉を囁く…らしい。イルカの元に文句やら嫌みやらを言いに来た、大勢のくの一の言葉によるとそうらしい。勿論それが心から言っているわけでないことはイルカは承知している。浮気はカカシにとってゲームみたいなものなのだ。
相手がその言葉に騙されて本気になるなんて、ちっとも考えていない。そして尻ぬぐいはいつも決まってイルカなのだ。
「あのバカのせいで…」
ぼそりと呟いた言葉は、くの一には聞き取れなかったようだ。
「とにかく!とっととカカシを解放してあげてちょうだいっ!」
「うるさいっ!」
何を言われても声を荒げた事のなかったイルカが、始めて怒鳴り返した。くの一はびっくりして、それ以上言葉が出てこなかった。
「確かに俺はカカシ先生には釣り合わないかも知れませんけどね。だったら一度くらい本人に直接言ったらどうですか!俺にばっかり言わないで!あの人がそれを聞き入れるかどうかは分りませんけどね。だって俺はあの人に愛されてますから!アナタ達浮気相手じゃないんですよ、俺は。恋人なんですから!カカシ先生にそう言って嫌われるのが恐いんでしょう?アナタとは遊びだけど俺の事は本気だって言われるのが嫌なんでしょう?だから俺に言いに来るんですよね。でももう迷惑です。これ以上続くようならこちらにも考えがありますからね!」
こんなひどい言葉を女性に向けて言い放つとは思わなかった。
けれど、これ以上我慢しても無駄だろう。きっとここで言わなければ、自分も女達ももっと傷つくに違いない。
パチパチパチ…とこの場に不似合いな拍手が聞こえてきたのはその直後だった。
「いやあ〜、いい啖呵ですねイルカ先生。口出しする間もなかったデス」
「…カ、カカシ…っ」
「カカシ先生…」
「俺の愛をちゃんと分って貰えてて嬉しいですよ。俺がアイシテルのはイルカ先生だけですから〜v」
諸悪の根元が立っていた。
「カカシっ!目を覚ましてよ、アナタあんなに女が好きだったじゃないっ!こんなもっさりした中忍のどこが私たちより良いって言うのよっ!」
…もっさり…。なんて口の悪いくの一だ。
「アンタ誰だっけ?俺の大事な人を悪く言うなんて許さないよ?」
「…っ!」
くの一を見るカカシの目は、それは本当に冷たくて。今までイルカが見たどんなカカシよりも別人の目をしていた。くの一は身震いして後ずさると、一目散に逃げていった。
本気で殺されるとでも思ったんじゃなかろうか?
こちらを向いたカカシからは、そんな冷たさは微塵も感じられなかったが。
「ただいま〜vイルカ先生!ああ、やっと帰ってきたって感じがしますよー」
「お帰りなさい。任務お疲れ様です」
そのままイルカに抱きつきながら「イルカ先生の匂いがする〜」と頭をすり寄せる上忍を何とか引き剥がす。
「カカシ先生。さっきのくの一、知ってますよね?アンタが落とした鍵を届けてくれたくの一です」
「う…。名前までは知りませんけど…顔は、まあ…」
「アンタの浮気の相手でしょう?名前も知らないんですか?」
カカシのいい加減さに呆れる。
「えっと…怒ってる?イルカ先生…」
「…怒ってないとでも思うんですか?アンタいい加減にしないと、捨てますよ?」
底冷えのする声がカカシの耳に届く。それに「えええぇ〜っ!」と真っ青になる。
「ちょっと待ってよイルカ先生っ!ひどいです、そんなの!俺はイルカ先生だけが好きなのに〜!」
「だったら今までの浮気は何だって言うんですかっ!一体この半年で何人とヤったんです!?」
今までの分も纏めて文句を言うぞ、という気になったイルカはとにかくカカシを問いつめる。
「それは…だって単なる性欲処理です!好きでも何でもない相手なんですから、浮気って言うよりむしろ右手の代わり…?」
「バカか、アンタはーーーっ!!!」
イルカの踵落としが見事に決まった。きゅう…と伸びるカカシを見下ろして、イルカは何でこんな奴がモテるんだと世の理不尽さを呪った。
カカシの目が覚めたのは、すっかり日も落ちた頃だった。
「イルカ先生、ひどいですよ〜」
大きなたんこぶをさすりながら、カカシが起き出してきた。イルカは黙ってお茶を淹れるとカカシの前に差し出す。
「いいですか、カカシ先生。今後一切浮気はしないで下さい。いい加減俺も切れますよ」
「…もしかして妬いてるの?イルカ先生」
お門違いの方向にわくわくされて、またもイルカは肩を落とす。そりゃあ、妬いてもいる。だってカカシの事が好きなんだから。自分以外の誰かを抱くなんて、冗談じゃないとも思う。
けれど根本的なところでこの男は間違っている。
「大体、俺のことが好きなんだったら、どうして余所でヤろうなんて思うんですか」
「…えーと。単に柔らかい女の身体が、ですね。好きだったり〜…」
「アンタ、ちょっとそこに直れよ…」
「わわわっ!イルカ先生待って待って!あ、そうだ!だったらイルカ先生が色々趣向を凝らしてくれればいいんですよ!」
「……趣向…」
「ほら!ナルトのお色気の術とか!たまに使ってみたりしちゃどうです?」
イルカの二撃目を綺麗に受けたカカシが再び昏倒した後、イルカはカカシのために淹れた、すでに温くなったお茶をすすった。そうしておもむろに立ち上がると、大工道具を取り出すのだった。
翌朝イルカの寝室のドアには、がっちりと頑丈そうな鍵がふたつも取り付けられていた。
「あのー…イルカ先生。それは…?」
「鍵です。最近は不用心ですからね。家の鍵も大事ですけど寝室にも頑丈なのを付けました」
何があるか分りませんからねえ〜とイルカが他人事のように話す。
「それで、そのー…合い鍵は…?」
「もちろんありませんよ、そんなもの。家の鍵じゃないんですから」
「ええええええーーーーーーっ!だったら俺、どうしたらいいんですかあーーーっ!」
えぐえぐと泣き真似をしてみても無駄。ぐずぐずと駄々をこねても、更に無駄。
「とにかくアンタはきっちり反省するまで、当分の間出入り禁止です」
だったら浮気しますよと脅してみるも、にっこり微笑んで「じゃあ一生出入り禁止ですね」と返されては、カカシは手も足も出ない。
「ほら、良い子だから泣きやんで下さい。家の鍵は渡してあげますから」
家の鍵を渡されても寝室のドアが開かなければ、返って生殺しだと言うことに気付かずにカカシは素直に喜ぶ。そんなカカシに「バカな子ほど可愛い」という言葉が頭に浮かぶイルカだった。
「いいですかアンタ。今度この鍵を他人がここに持ってきたら、この鍵も没収ですからね」
そんな事になってはたまらない。カカシはぶんぶんと音が聞こえそうな勢いで頷いた。
「ねえ、イルカ先生。だったら言ってよ。俺のことアイシテルって…」
カカシは子供のように愛を強請る。
「だめです。勿体ないから。そんな言葉は1年に1回言えば良いんですよ、有り難みが無くなるでしょう?」
「俺は毎日でも言って欲しいですよ〜。ねえ、イルカ先生〜〜!俺も言いますから〜!」
「言われるのは嬉しいですけどね。でもだめ」
鍵はいつでもここにある。この心の中に。
アイシテルと言う言葉すら、本当はいつも唱えているのだ。声に出さないだけで。
だけどそれは内緒。だって勿体ないから。
鍵の在処はいつでも秘密。知られたらカードがなくなるから。余裕なんかじゃなくて。
「大好きですよ、カカシ先生」
ぱあっと明るくなる表情にイルカは満足する。
「おれも好きです、イルカ先生!大好きです!」
おしまい