平成28年度 後期特別企画展 終了


テーマ 「漢方薬と万金丹」


万金丹(まんきんたん)は、江戸時代「伊勢の霊薬」として全国にその名を知られました。 昔の参宮者は、荷物にならず実益のあるお土産物として伊勢暦、伊勢白粉(おしろい)等と 共に人々に大変喜ばれました。 また旅人の道中薬として、家庭の常備薬としても重宝されました。
しかし明治以降漢方薬は西洋薬に押されて影をひそめていましたが、近年になって副作用などで 西洋薬が問題になるに従い、 長い歴史により証明されてきた自然の生薬を使った漢方が最近見直される様になりました。 万金丹も副作用のない良薬として再評価されています。
今回の展示では、万金丹の歴史・由来、効能などを紹介すると共に他の漢方薬も同時に展示紹介します。


開催場所:伊勢古市参宮街道資料館
開催期間:平成28年10月12日(水)~11月6日(日)
開催時間:9:00~16:30
  月曜日休館日(祝日のときは、その翌日)
  休日の翌日(ただしその日が日曜日は除く)
主な展示物:置看板・道具類・版木・写真パネルなど



   万金丹(まんきんたん)

伊勢路の土産物「万金丹」600年の歴史を持つ伝統薬
人類は、長い歴史の中で薬用となる植物を見出し薬草が中心となる伝統医学を発展させた。
日本各地にも、昔から地域に根付いた伝統薬があります。伊勢の伝統的薬といえば万金丹です。 「越中富山の*反魂丹(はんごんたん)、鼻くそ丸めて万金丹」と童唄でも親しまれ、「反魂丹」 と並び全国的に知名度の高い伝統薬です。
反魂丹は行商で全国に普及したのに対し、万金丹は伊勢暦、煙草入れ、伊勢白粉(おしろい)とともに伊勢路の土産物として広まっていきました。
*反魂丹(はんごんたん):丸薬の一種。胃腸、腹痛などに効能がある。中世より家庭用医薬品として流通した。

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   普及の主要因として

(その1)
伊勢は古くからお伊勢参りの人々が訪れており江戸時代に入って村ごとに「伊勢講」が組織され、積立金で年一回代参を送り出す風習が定着すると共に、いっそう伊勢参りは普及しました。村の代参人はお参りのお礼に土産物として万金丹を選びました。ありがたい信仰が背景にあり荷物にならず、しかも実益のある薬―万金丹はだれからも喜ばれました。
(その2)
江戸時代伊勢には、参詣者の案内や宿泊を業とした「御師」(おんし)がいました。御師は年末になると全国津々浦々檀家廻りをし、伊勢神宮の御札(おふだ)を配布しました。その時に一緒に持って行ったものの一つが万金丹でした。
(その3)
旅人が腰に下げていた印籠の中にも万金丹は入っていて、懐中薬の代表でもありました。
(その4)
庶民にとって安価でよく効く家庭の常備薬として親しまれました。
こうして、万金丹は胃腸病はじめ万病に効く妙薬として欠かせないものになっていったのです。

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   万金丹の歴史・由来

(その1)
江戸時代は、薬の販売には「官許」(かんきょ)という政府の許可が必要でしたが、現在のように個々の製薬会社が製造特許や登録商標などを持っていなかったため、伊勢の参宮街道沿いには、万金丹の看板を掲げた店が数多くあり多くの種類の万金丹が販売競争をしていました。一時期伊勢だけでも20社以上あった業者は明治期に入ると西洋医学の普及に伴い 廃業を余儀なくされた。
現在に至っては「小西万金丹」一社が、製造を県外に委託し販売のみをおこなっている。また伊勢薬本舗(株)が、伊勢の伝統薬「万金丹」の復活を目指し、「伊勢万金丹」の名称で販売を開始している。 
(その2)
万金丹を製造、販売する店舗は複数あり同じ万金丹という薬を販売していましたが、由来はそれぞれ異なります。伊勢の万金丹は、「三重県薬業史」によれば朝熊岳から起こる「野間万金丹」と「護摩堂明王院に起源する万金丹」、山麓の朝熊村から出る「秋田教方中倉万金丹」、そして「小西万金丹」の4つの流れに大きく分かれます。

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4つの系統

  ① 野間万金丹
  ② 護摩堂明王に起源する万金丹
  ③ 秋田教法中倉万金丹
  ④ 小西万金丹


① 野間万金丹(のま)

野間万金丹は◜霊方(れいほう)万金丹◞として知られた。野間家の言い伝えによると、祖・宗祐(そうすけ)が室町時代の応永年間(1394〜1427)に故郷・尾張の国野間(現・愛知県知多郡野間)から金剛證寺の中興の住職仏地(ぶつじ)禅師に随行して、朝熊岳の金剛證寺(こんごうしょうじ)に移住した。

その信仰の過程で秘方を獲得し、創薬したのが万金丹であったという。金剛證寺は伊勢神宮の鬼門を護る寺であり、「お伊勢に参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭に歌われ、朝熊参りも信仰の重要な対象だった。

野間万金丹は金剛證寺の門前に薬舗を開き、金剛證寺で祈祷を終えたあと、参詣の人々に販売された。

宝暦8年(1758)には薬を京都の宮家に献上して「*因幡少掾」(いなばのしょうじょう):官名」に任ぜられて、それ以降の子孫も官名を得ている。朝熊詣でが盛んになって店も繁盛したため、山田の妙見町(現尾上町)にも支店を出し参宮の人々に対して施行の粥を振る舞うほどの豊かさだった。

延享5年(1748)の「朝熊山珠玉堂記」の中にも野間家の世代永続のことや、妙見町にも支店を設け、本・分店共に繁盛して、当時渇望の的となって、所々に別な万金丹店ができ、これを官に訴えてことごとく閉めさせたということまで出ている。

明治3年には野間因幡少掾の名を野間圀彦(くにひこ)と改名して盛業を極めた。 しかし昭和19年の朝熊山ケーブル廃止により朝熊詣の激減で販売量が減少した。さらに昭和34年の伊勢湾台風による店舗の大被害等で本店が閉鎖。その後、支店のみの営業になり販売していたが、やがて廃業になった。

*掾(じょう):もともと官名で近世では多様な職人や芸能人に宮家から与えられた。大掾、掾、少掾の3階級に分けられ、掾(じょう)を受領することは最高の名誉とされた。


野間万金丹本舗「目で見る伊勢志摩の百年」より・この建物は伊勢湾台風により倒壊してしまった


尾上町支店

② 金剛證寺の護摩堂明王院の万金丹

金剛證寺の護摩堂明王院にも無類万金丹というのが伝わっていたという。尊光という院主の時、夢の中で調合の秘方を教えられて人々に施薬し難病を救ったという。寛保元年(1741)山原伝四郎他3名に調合法が伝えられたという。明治初年まで妙見町に出店を設け販売していたが、いち早く没落したと伝えられる。

③ 岩城万金丹(いわき)秋田教方万金丹(あきたきょうほう)

古市とは特に深い関係を有する万金丹である。
岩城万金丹は、江戸初期に秋田城之介(秋田藩主)安部実季(さねすえ)(1576〜1660)が国内の不取締りの罪により、寛永8年(1631)伊勢国朝熊山麓に配硫になった。たまたま同地に住んでいた中倉義元と懇意となり、実季は自分の持っている秘薬(万金丹の薬方)が失われないようにと、これを義元に伝授したことから始まるとされています。 中倉家はこれを秘伝として製造・販売しました。7代目忠悦の代には医業も務め、京都にでて「伊勢大掾(だいじょう)」の名をもらった。

秋田教法万金丹は2つの系統説がある
中倉家が製造・販売を始める際に中之町の岩城家にも伝授され、最初は中倉家を本店に、支店を岩城家に置いていました。しかし寛永17年(1640)に中倉家が絶えたので岩城家が本店を継いだという説と、もう一つは中倉義延から出たという説で、これが桜木町にあった岩城梅寿軒である。



④ 小西万金丹(こにし)

小西万金丹はお伊勢参りの伝統に支えられた「神仙(しんせん)万金丹」と呼ばれた。伊勢神宮外宮の門前、 八日市場に店を構える小西万金丹本舗は、伊勢国司・北畠具教(とものり)北畠家8代当主の家臣日置越後守清久 (せいきゅう)に始まる。主家滅亡後、清久は医道を志し泉州堺(現大阪府堺市)の小西家より製薬の秘方を譲り 受けた。家名を小西と改め、伊勢山田の八日市場に延宝4年(1676)薬舗を創業し、万金丹を販売した。

最盛期は四日市、京都、草津、伊賀などに出店していました。そして享保8年(1723)小西万金丹は、宮家より 職人の最高位である大和大掾の名を賜り明治維新に至る8代の間、小西大和大掾を称し名声を高めた。家業に最も力を 入れたのは3代目清聿(きよのぶ)で冶公園(じこうえん)などを売り出した。冶公園は小児薬で万金丹より売れ行き が良かったといわれています。しかし明治期に入ると、他の万金丹店舗と同様に事業は縮小せざるを得なくなりました。

現在、小西万金丹は医療品ではなく健康食品として販売されており、参宮客のお土産物として親しまれています。 八日市場の店舗では現存している道具類を利用して「まちかど博物館」を開き、万金丹を知ることのできる施設として 活用しています。

 歴史  延宝4年(1676)
初代中村清久(せいきゅう)は、医道を志していたとき泉州堺(大阪府堺市)の小西家より製薬の秘方を譲り受けた。家名を小西に改め、伊勢山田の八日市場に薬舗を構えて万金丹を販売した。

元禄年間(1688〜1704)
2代目清勝は京都・四日市日永に出店

正徳年間(1711〜1716)
3代目清聿(きよのぶ)は江戸・近江草津・伊賀名張に出店を増設。 薬事に精通しているため江戸の医学者と交流をもち新薬の研究に努め、 冶公圓・千金聖遺丸の2種を創案し、販売している。 当時冶公圓は万金丹より良く売れたそうです。

享保8年(1723)
3代目清聿は、宮家より職人の最高位である「大和大掾」(だいじょう) の名を賜り明治維新に至る8代の間、小西大和大掾と称し名声を高めた。


*「三重県薬業史」には、「故實郷談」と云う書物に「小西大和大掾万金丹は朝熊岳より古し 享保年中に大和大掾を受領す」とあり、その歴史の深さが伺えます。 明治以降、小西清香の商標で冶公圓・万金丹を商い、現在は、 16代目が当主を継ぐ。健康維持食品として販売され愛用する人も多いという。

重厚な建築物―小西万金丹本舗
小西万金丹の薬舗は外宮にほど近い旧参宮街道沿いにあり、明治初期に建設された間口10間の堂々とした切妻造りの2階建、述べ500平方メートルの建築物の中には黒漆塗り金文字看板が置かれていて、「お伊勢さんの霊薬」として親しまれてきた頃の雰囲気を今に残している。

野間万金と小西万金丹の商法の違い
野間万金丹は朝熊岳の金剛證寺を本拠地とし、朝熊参りの信仰客を主力にしていた一方で、妙見町にも支店を設け参宮客相手にも販売していた。これに対し小西万金丹は外宮の参詣人を対象にするだけでなく、江戸、近江など県外にも出店を設けて拡充している。

万金丹の原材料と製造法
原材料
アセンヤク末(阿仙薬の木を煮詰めた液の粉末)
カンゾウ末(甘草の根の粉末)
ケイヒ末(桂皮の粉末)
チョウジ末(丁字の花蕾の粉末)
モッコウ末(木香の根の粉末)
チンピ末(陳皮。ミカンの成熟した果皮)
結合剤として寒梅粉(かんばいこ)
を用いる。仕上げに衣として丸薬に
銀箔を微量まぶしてある。

製造法
原材料の製薬を薬研(やげん)をつかって粉末にして、篩通(ふるいとおし)にかけて粒子をそろえ、計量する。
乳鉢で混合する。乳鉢は目の無いものを使用する。これは高価な生薬が乳鉢の目に詰まり、目減りすることを防ぎ、他の生薬と混合するのを防ぐため。
出来上がった粉末状の生薬に寒梅粉を加え、寒の間に用意した水を加え、コネ鉢でねる。
練り上がった生薬をヘラで下升(したます)にいれ、型をおこし、鍋の蓋状のもので丸めると丸薬ができる。
これを陰干しして、銀の糖衣をつけて製品とする。
小西家は1から2月の寒中を中心に製丸師に来てもらって昔ながらの伝統的製法で製造していた。

万金丹の効能
効能は腹痛、下痢、食あたり、水あたりなどの胃腸病はじめ食欲不振、胃腸腹部膨満感、消化不良、食べ過ぎ、飲み過ぎ、胸やけ、吐き気、嘔吐等。
風邪の引き初めに万金丹を服む年配者は多い。これは以前の万金丹の用法書に、風邪には万金丹20錠、生姜2〜3切れを水一合にて煎じて服用せしむ、という記述があったからである。今日の効能は胃腸関係に限られているが、生姜との生薬複合効果で風邪を治すあたり、伝承妙薬の発想が脈々として存在しているといえる。
万金丹は江戸時代、道中薬として万能薬視されていたが、今日では薬事法のもと、「万能」は許されていない。

特徴
万金丹は幾つもの系統があって、しかも多くは夢想を得て調合を知るという、超科学的というか、信仰と結びついた形で始まり発展している点が特徴的である。
陀羅尼助(だらにすけ)も万金丹同様、夢想で調合を知ったという伝説がある。 略して陀羅助(だらすけ)と呼び、主に奈良の当麻寺(たいまでら)で売られていた。

「野間万金丹、小西万金丹、伊勢ノ国万金丹(現在は小西万金丹と伊勢ノ国万金丹の2社となっています)の原料は、阿仙薬・肉桂・丁字・甘草・木香・麝香(じゃこう)など成分比率に微妙な違いがあるも同じ主原料であり、また江戸期の中嶋文庫に記載されている万金丹の漢方原料を比べても、主原料は同じでありました。」

「伊勢の薬万金丹」 飯田良樹著より


参考文献
「伊勢の薬万金丹」 飯田良樹著
「ふるさとの風万金丹」 石倉真美著
「万金丹」 19年度皇学館大学卒論
「伊勢探訪記」 秋田耕司著
「伊勢市の民族」 伊勢市民族調査会/編著
「三重県薬業史」 伊勢長次郎編
「伊勢山田散策ふるさと再発見」 濱口主一著
「日本の名薬」 山崎光夫著
「伊勢の古市夜話」 野村可通著
「くすりの博物誌」 青木充夫・吉田恵子著