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4    涙の別れ 我慢

1962年 昭和37年 10歳
































この頃だったと思う。。
 いつの日か父と母が本館にいなくなったのは・・・
 
弟が2年生と保育所の頃だ・・私達は、春婆ちゃんに育てられてた・・何でやろ・・その訳は大人になってから 涙声の母から聞かされた。。わが子と一緒に暮らせなかった母の無念さ・・
 
 父が本館では景色も見えないし大きく伸びていかないと答志島の和具に山を買い求め 昔「大洋閣」という旅館の古い建物を買った。そしてそれがのちのかの有名な(#^.^#)爆笑「中村屋別館」の誕生となった。
 
 が・・春婆ちゃんは、猛反対の末 孫達を本館に置いていけと、条件をつけた、そうすれば父が諦めるとでも考えたのであろう。
しかし、父は幼い頃から苦労の連続で自分のやりたい夢も諦めてばかりだった。どうせ旅館継ぐなら旅館に命をかけようと。。思ったようだ。結局 父母は本館を離れ
別館に移り住む事を選んだ。
 
さあ!それから私達子供は例えようがない寂しい暮らしが始まった。子守のおばちゃんが時には一人に一人についてた。今で言うお嬢さんだね・・そんな優雅なものでもなく。。ただただ寂しい日々であった。

 月に一度 父母は本館に泊まった。母の両腕は弟達の枕。
私はお姉さんだから我慢の子。。そして次の日親は別館に帰る。そして 次の一ヶ月度に親のいない子になる、

 春婆ちゃんは、よっぽど腹が立つのであろう。何やかや私に暴力を振るってた。
「痛いよう。。お母ちゃん 帰ってきて・・」何度泣いた・・何度・

・春婆ちゃんが私達子供にこしらえてくれるご飯ときたら。。ご飯に砂糖ぶっかけ。「砂糖はなかなか手に入らんかったから、ごちそうなんやぞ」と。。
ご飯は半分酸っぱくなりかけの客用の残りご飯。。完全に酸っぱいのは、洗濯物の糊にするのだ。
毎日魚のあら煮(生き作りの残骸)伊勢海老のあら煮(生き作りの残骸)今思うとご馳走かな・笑・で 野菜はというと 刺身のケン 大根です ワサビで食べた。

 こんなんで子供の健康は保たれない。。案の定。。学校から「栄養失調」の紙もらって帰った。(あれって春婆ちゃんは母に見せて無いと思う)

月に一度母が帰るとドーナツを揚げてくれた。夢のような味やったなあ・・・「おかあちゃんのご飯は美味いねえ」 三人は声を揃えて言った。春婆ちゃんの目が睨む。

 そういえば・・この年の前に島の映画館で歌の大会があって歌って(何唄ったかなあ都はるみ?)金一封もらったような。。
辛いと私は何する時も歌を唄ってた。この頃から私に歌は無くてはならないものとなってた。
お客様に歌教えてもらったり ハーモニカ聞かせてもらったり手品 折り紙も教えてもらったりしてた・・お客様は神様だ 爆笑。

 そや  てなもんや三度笠見て よー笑たわ。
  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 流行歌●36年「上を向いて歩こう」「銀座の恋の物語り」
         「王将」
       夢で逢いましょう。シャボン玉ホリデー
     ●37年「可愛いベイビー」「いつでも夢を」
      ツイスト流行 

  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
NO5
   1963年 38年 11 〜12歳  
     人見知り 臆病 口下手だった私
。。
何をするにも、人前で話したりするのがとても苦手であった、学校の授業で 質
問に答えたり本読みに当てられたりすると、体中が振るえて声にならなかった。
あれは。。いったい何だったんやろ・・

島の同級生84人の中の何人かの女の子達が、毎朝登校に家まで誘いに来てくれてた
「すずちゃーん行こやー」・・今を思えば、根気の要った事だったろう。
あの時の皆に頭の下がる思いです。同い歳なのに本当にお世話かけてしまって。たくさん遊んでくれてありがとう。

絵をよく描いてた私、母は絵はなんの役にもたたんから描くなって私をよく叱って
た。
でも好きやから・・
ある日海女さんの絵をすごい上手く描けたので、嬉しくて次の日学校へ持っていって先生に見せた。。
 ところが。。
「鈴さん 君が描いた絵じゃないね 誰が描いたんや?」
その言葉に全身から血の気がひいた「あの・・私が・・」先生は聞こうともせず行ってしまった。

この時 もう少しで絵が嫌いになるとこだった。
危ない危ない 
心はしっかりしていないと(#^.^#) いつか先生が驚く絵描いたるんや!^^
そう思ったものでした。^^
 漁師町の昔は男尊女卑の世界。笛とかハーモニカとかの授業の時は、休み時間に弟たちの教室まで借りによく走った、そう ・・女の子には買ってくれない。
めげずハーモニカ借りるため・・走った。で・・何でか足が速くなった イヒヒ
おかげで運動会一等賞や(#^.^#)
 
 音楽の授業と体育の授業は特別張りきりすぎてたような私 笑 
体育の跳び箱が飛べなくて(クラスで一番背が低かったので) 悔しくて 毎日日が
暮れるまで練習した。
 鉄棒も・・で 、とても上手くなった。(#^.^#)自画自賛
ついでに幅飛びも練習というか皆と遊んだ。
背が小さいので結構皆に可愛がられてたな・・ありがとう・・(思い込み・・^^)

 学校で休み時間に演歌を歌ってたら先生に怒られた。。今ならそんな事で叱ら
れないと思う・・何やったんやろ あの頃の教育は?

春夏秋冬クラス仲間といろんな所で遊んだ、野や山や海 浜辺 ・?浜辺。。。そや・・あの頃の浜辺すごかったなあ、、、打ち寄せる波打ち際にあこや貝が流れて来て
た。。そう。何と!!中に真珠が殆どある。。あけると入ってる あの時のワクワク感
父はそれを綿入れた透明のケースに溜めていた。
綺麗やったなロマンがあったな。
イの貝食べてると黒真珠もよく出て来た丸くないけど父はそれも溜めてた。
そんな風に私は父から感動やロマンも教えてもらったな。
 
 後でわかったことだが、鳥羽でも真珠の養殖が多くされていた。それが台風で
筏がやられて島に流れてたみたい。。
そんな事も知らずに私の中では、海で真珠が自然にあんなふうに出来て流れて
くるもんやとずーーーっと思ってた。アホやなあーーーー。(#^.^#)

 なんやかや なーんにも悟らないまま6年生になり、修学旅行へ行き(京都 奈
良)ぼやーと日々が流れ過ぎて卒業を迎えた。
 ホタルの光の歌声 仰げば尊しの歌声 泣けたな。。別に皆と別れるわけもない
のにねーー そのまま84人はその島の答志中学校に突入 爆笑
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 流行歌●

 ルーシーショー 底抜け脱線ゲーム アップダウンクイズ 
鉄腕アトム 宇宙家族 エイトマン

ケネディ暗殺

 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
NO6 中学生になって
中学生になってお年頃になって初恋も失恋?も イヒヒ^^

ええーと それは恥かしいので置いといてっと・・ゴメンm(__)m
クラスの中が落着かなかったような気がする。。先生も若くて生徒に負けてたなあ
新人先生も多くて皆 ワクワクしてたわ\(^o^)/
私達の頃は呑気だったので受験勉強もなくて・・嫌いな科目は勉強せず 落ちるばかりで 好きな科目は上達するわ ほんまに。。先生達は困ってたやろな・・
でも ああいうのって今の子達に経験させたいな。。
 田舎のおっさん風の数学の先生が厳しくて面白くて不思議な授業でした。黒板に方程式の問題書いて 「この問題が出来たら 泳いできてよろしい!わしは寝てるだけだ」って。。私 方程式大好きになって ほんまに授業中に学校の横の大間の浜で泳いだもんだ。今の時代だったら ありえないよねー^^楽しかったなあ・・おかげで
数学大好きになってたもん。。今は亡き先生・・ほんまに感謝しています。

島の田舎の学校は生活と密着してて ワカメ刈り時期になると生徒が少なくなる・・
家の仕事の手伝いだ・・皆りっぱだ・・