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 2004/6/27 『風都市伝説』 北中正和編 音楽出版社

極私的70年代回想

1970年代には、特別な思い入れがある。大学受験に失敗して、京都で浪人生活をはじめた。はじめてのひとり暮らしだったから、何もかもが新鮮だった。いつも街を歩き回っては、何か面白いものがないかと探していた。京都会館で開かれた岡林信康のコンサートに出かけ、高田渡を聴いたのもこの頃だった。あの頃、もう岡林はロックをやりかけていたから、もしかしたらその時のバックもはっぴいえんどだったのかも知れない。

中津川の糀の湖畔で開かれたフォークジャンボリーにもギターをぶら下げて汽車に揺られていったものだ。その時の記録映画が『だからここに来た』というドキュメンタリー映画になって残っている。後にTVでも放映されたが、最前列に米軍放出のジャケットを着てレイバン風のサングラスをかけた自分が映っている。岡林と口をきいたのはこの時だった。ちょうど海の向こうでウッドストックが開かれ、映画を見たばかりだったから、東京から来ていたヒッピー風の連中と一緒に行動していた。学生風の連中とは距離を置いていたようだ。はっぴいえんどはこの時、バックだけでなく自分たちの曲も演奏していたが、東京から来ていた連中は、岡林よりはっぴいえんどの方を注目していたことに驚かされた。

その後、高田渡のコンサートの楽屋に出入りして、ミシシッピ・ジョン・ハート風のピッキングを直接教えてもらったり、加川良に「そのジーンズ、どこで買ったの」なんて訊いたりしていた。山下洋輔が、京大西部講堂で演奏した日もそこにいた。はっぴいえんどはすっかりメインのグループとして頭に入っていたが、本にも書かれている通り、その頃のPAでは、彼らの音をイメージ通り聴衆に聴かせることははなから無理な話だった。この演奏会も、風都市が企画したものだったらしい。高田渡は、友人のシバ君と一緒に「武蔵野たんぽぽ団」をやっていた頃で、ギターのハードケースを紐で肩から提げて登場したのだが、いかにも高田渡らしくて、からかったような記憶がある。吉田日出子が岡林と結婚したばかりの頃で、いっしょにコンサートについてきてたけど、ミュージシャン仲間にはあまり知った人がいないのか、さみしそうにしていたのを覚えている。小坂忠とフォージョーハーフ(四畳半のシャレ)は、近所の女子大の学園祭で聴いた。松任谷正隆や後藤次利は、まだ無名の頃だったが、他のグループと比べ、格段にかっこよかった。

その頃、はっぴいえんども影響を受けたバファロー・スプリング・フィールドやCSN&Yに憧れて、質屋で買ってきたSONYの古いオープンリール型のテープレコーダーで、FM放送を録音しては、何度も繰り返して、ギターソロをコピーした。ニール・ヤングの「Tell me why」が、大のお気に入りだった。ピート・シーガーの真似をして、中古のバンジョーも買ったが、これはギターのようなわけにはいかなかった。

いろいろなところに出かけては、いろんな連中と会ったりしていたのに、ひとつ所に入り浸るということができなかった。バンドをやっていた時も意見が分かれて解散すると、行動を共にする者も出てくるのだが、こちらに相手を引き留めようという気がないのを知ると、一人去り二人去り、結局気がついたらいつも一人で行動していた。街には不思議な熱気があふれ、誰とでも連帯できそうな熱い時代だったのに、そうした性格が災いしたのか、時代の波に乗り損ねていた。

風都市とは、はっぴいえんどやはちみつぱいのコンサートやレコード制作に関わった企画者集団のことだ。この本は、その短いながらもそれまで日本になかった音楽活動の先駆者としての記録である。この本に登場する人たちのように、東京にいて、渋谷百軒店に入り浸っていたらどうなっていただろうか。おそらく、どうにもなりはしなかっただろうが、そんな想像をしてみたくなるような同時代の記憶にあふれたたまらなく懐かしい一冊だった。

 2004/06/26 『猿飛佐助からハイデガーへ』 木田 元 岩波書店

「忍術」と「哲学」

著者はハイデガー研究で知られる著名な哲学者。
書名の由来がふるっている。同窓会で二十年ぶりにあった友人に仕事を訊かれ「大学の教師」と答えると、何を教えているのかと訊く。「哲学」と答えると、友人、うっと息を呑み、「そういえばおまえ、子どもの頃から忍術が好きだったよな」と宣ったという。それを思い出して題名にしたのだと。

「忍術」と「哲学」、どちらも普通の人生を歩いている人にとっては、無用の存在である。しかし、「無用の用」という言葉もある。忍術は目くらましであり、存在し得ないものを術によってさも存在しているように見せるもの。著者によれば、哲学とは、幾何学でいう補助線のようなものだそうだ。曰く「補助線は与えられた図形のうちに現実に存在するわけではなく、虚構的なものであるが、それが引かれることによって、その図形の隠された構造が浮かび上がってくる。哲学も、同じような意味で、世界や社会や歴史の外に引かれる補助線のようなものではないのか」と。

つまり、著者にとっては猿飛佐助の忍術も、ハイデガーの難解きわまりない哲学も、隠されていて見えない世界を開くための「補助線」なのだ。そして、その意味では、猿飛佐助からハイデガーに至るまでの比喩でなく読破した万巻の書は、少年小説や推理小説といった娯楽的な読書も、芭蕉や朔太郎の詩も、キルケゴールやドストエフスキーのように、青年期特有の求道的な読書も、サルトルやメルロ=ポンティのような哲学書もまた著者にとって世界を開くための「補助線」だったのだ。

子ども時代の腕白ぶりや闇屋時代の金儲けの話を読むと、著者が並はずれたバイタリティを持った人物であることがよく分かる。潜在的なエネルギーを持ちながら、家族の生活を支えるために意に染まぬ生活をせざるを得なかった戦後すぐの時代は、さぞ苦しかったことだろう。父親が満州から帰国することで、生活の苦労はなくなったが形而上の飢えは癒されなかった。ドストエフスキーやキルケゴールにのめり込んだのは、世界を欲しながら、世界を見つけ出すことのできない絶望が二人に共通してあったからだ。

そして、そのいわば実人生上の問題を解決するために引かれた補助線がハイデガーだった。戦後の物のない時代に大学生活を送った著者は、ハイデガーを読むために、図書館から借りた原書を講義に必要な分ずつノートに筆写し、辞書と首っ引きで読んでいったという。翻訳された本が簡単に手に入らなかったからこそ、著者は一年一カ国語という驚異的な速さで、次々と外国語をマスターできた。推理小説をはじめ膨大な読書を通じて培った力に付け加え、原書が読める力を得たことで、ハイデガーという難解な哲学者について、難解さを有り難がっていた哲学界の潮流とは異なるところで、『存在と時間』という問題作の真の意味を探り当てることができたのだ。

ドストエフスキーもハイデガーも、今の時代には、あまりに重くて暗過ぎるかも知れない。原書もネットで簡単に入手できる。直訳でいいならコンピュータが翻訳してくれる時代である。そんなお手軽な時代に、著者の苦労話はいかにもそぐわない。しかし、読後、感じるこの満足感はいったい何だろう。人との出会い、読書の愉しみ、勉強の実感、どれもコンピュータやインターネットが与えてくれるものとは現実感が格段にちがう。

苦労話と書いたが、著者にその意識はない。ハイデガーを引用しつつ著者は言う。「我々は過去から現在へ、そして未来へと直線的な時間の流れを流れ下っているわけではなく、おかしな言い方だが、過去と現在と未来とにまたがって、それらを同時に生きているのではなかろうか。絶望というのも、我々が時間性を生きる生き方の一種の乱れのように思われる。」こういう位置から眺めるなら、終戦後の悪戦苦闘の時代もまた、別様の感慨を持って受けとめられよう。

適切な補助線を引いて見る時、人間とは実に豊穣な時間の流れの中を生きていると言わねばなるまい。隠された世界を見つけるための補助線、是非見つけたいとは思うものの、ネットで情報を得るように簡単にはいかないこともたしかだ。

 2004/6/22 『熱い読書 冷たい読書』 辻原 登 マガジンハウス

『遊動亭円木』一作で感嘆したのだが、巧い書き手である。

何が上手いか。まず題名のつけ方がうまい。『遊動亭円木』でも、そうだが、ひねりが効いていて洒落っ気がある。それでいて、今はもう喪われてしまったものに寄せる仄かな哀切感が漂う。それは、たかだか四百字詰め原稿用紙四枚程度にまとめられた書評にもあてはまる。主題を押さえた上で、もうひとひねり加える。そうすることで、読者をひきつける。たとえば、「僕には魚が釣れない」。これなぞは、まるで今風の小説の題だ。「四十九日の物語」は、主題をずばっと言い切ったタイトル。「小説の堪えられない旨さ」は、いわずと知れたクンデラのもじり。

次に、書き出しがいい。あえて断言口調を用いる。曰く「小説の主人公には深い情熱と知性、要するに『性格』が必要だ。」これは北村薫の「円紫さん」シリーズを語る冒頭。「一冊の本について、もしそれを正確に本の終わりからはじめへと要領よくたどるなら、これにまさる評はないのでは、と考えている。」ではじまる中勘助の『犬』の書評は、ゆくりなくもその実例を見せる。「わが日本文学に花柳小説というジャンルがあった。」と、過去形ではじめて、今はないその花柳小説の変種として井上靖の『あすなろ物語』を持ってくる力業。どれも上手い。

そうなると当然のことながら、結びが気になるが、これがまた、いい。絢爛豪華な舞台が突如として暗転するような息を呑む終わり方や、嫋々とした余韻を残す結末と、工夫をの跡が見て取れる。初恋の人ドロレス・デル・リオとの恋のさなかに撮りあげた『市民ケーン』について、「彼は幸福の絶頂にあった。映画の入りはさんざんだった。」という対句の決まり文句。鏡花張りの語り口調を生かした『眉かくしの霊』の結びはこうだ。「か細い女の声音で『似合いますか』。まわりがはっと息をのんで、しんとなる。」まるで鏡花だ。

それでは、肝心の中身はどうかといえば、そこはそれ、練りに練られている。特に、今まで他の評者が触れていないだろう新解釈や、気づいていない魅力を語るとき、作家の筆はいちだんと冴える。カフカの『変身』。作家はこのよく知られた物語を、友人が死んで四十九日の法要を終えたとき、突然思い出す。冒頭をこう変えて読む。「ある朝、グレゴール・ザムザは……自分が死んでいるのに気づいた」と。「これはつまり『四十九日』の物語なのだ。四十九日目に死者の魂は肉体を離れて冥土へ旅立つ。土中では死体の溶解がはじまる。生きている者たちは再び生への活気を取り戻すだろう。死者は自分の死を受け入れるだろう」。この物語のはじまりから終わりまでは正確に一ヶ月半となっているそうだ。

数え上げれば、うまいと思える点は、まだ他にもある。引かれている引用文がいい。あとで、何かの時に拝借できるという効用がある。「薬を飲みたがる気持ちは人を動物と区別する最も大きな特徴のひとつだ。」これは、オーソン・ウェルズが18ヶ月目にベビーベッドで往診に来た医者に吐いた科白だそうだ。語り口の上手さ。北村薫を評した言葉がそのまま作者にもあてはまる。「理におちず、韜晦せず、情味に欠けず、あきさせない。」その通りである。

藤沢周平の作品を評するのに、持ち出した「サウダーデ」という、ポルトガル語以外に訳せないといわれる感情を、作家は「失われた時と場所への憧れ」と表現している。不在への憧れが悲しみをかきたてると同時にそれが喜びともなる、えもいわれぬ虚の感情……。それはまた、この書評集に流れる通奏低音でもある。書評というより、よくできた短編小説を読んだあとのような満ち足りた読後感が読者を浸す稀有な書評集といえよう。

 2004/6/13 『ゲド戦記外伝』 U・K・ル=グィン 岩波書店

ゆっくり読んでいくはずだった、『ゲド戦記外伝』だが、読みはじめると、途中で切るのはむずかしい。特に、休日ともなれば、食事の時をのぞいて、だれに遠慮もなく書斎にこもりっきりになれるのだからなおさらである。しかも、『ゲド戦記』を読み出すと、一冊読み終えたところで、前の作品を読み返したくなるという悪い癖がある。今回も『外伝』を、読み終えてから『アースシーの風』を読み出し、それも読んでしまうと、第一巻にもどって『影との戦い』を読みはじめるという始末だ。

五時になると鳴る防災放送を聞きながら、結局いつものように終日部屋にこもりっきりで読書という代りばえのしない一日になってしまったなあ、とひとり、苦笑いした。それから、家中の掃除をはじめた。たまの休日である。ふだんは何かと忙しくてできない掃除やかたづけをするにはいい機会だと思っても、ついつい先延ばしにして本を読んでしまう。こちらの方も、じっくり読むにはやはり休日を待つしかないからだ。

しかし、『ゲド』を読むと、なにか働かなくてはならない気がしてくる。それも、日常的な身の回りのこまごまとした仕事をだ。あの大賢人のゲドが、畑の水やりをしたり、山羊の世話をしたりしているのだ。小人が閑居していながら、何も動かず本ばかり読んでいていいのかという気がしてくるのである。

ル=グウィンは、初めの頃『ゲド戦記』で行なわれる魔法について、芸術家の行なう芸術活動についての隠喩であるという意味のことを書いていたそうだ。作品世界が広がるにつれて、そんなに単純な比喩で語れるようなものでなくなってきているのは確かだが、多島海に浮かぶ多くの島々に散らばる天分を持った若者が集うというだけでも、ローク島の学院が高度に知的な作業を行うアカデミックな専門家集団であることはまちがいのないところだろう。

『ゲド戦記外伝』所収の『カワウソ』は、三部作終了後新たに稿を起こした『ゲド戦記最後の書−帰還』と、第5巻『アースシーの風』をつなぐものと考えられる短編で、ローク島の学院がいかにして始まったかが書かれている。そこに集められるのは、確かに天分、才能のある者たちだが、どこか、ヘッセの『ガラス玉演戯』に出てくるカスターリエンを思わせる、芸術家にして民衆の指導者という選良たちの集団である後のロークの学院とはちがい、老若男女を問わぬ、海賊や諸候に従うことを欲しない「手のわざ」を持つ者たちで、決して才能にあふれた青年たちばかりではない。

ビルドゥンクス・ロマン(人格形成小説)を思わせる『影との戦い』では、学院に集うのは男たちばかりであったが、やはり、『外伝』所収の『トンボ』では、『アースシーの風』にも登場するアイリアンが、男装してロークの学院に入り込もうとするのを、守りの長や様式の長は、手助けさえする。前期三部作と後期二作と外伝の世界を分かつのは、柳田国男の言う「妹の力」の強度の差ではなかろうか。

第2巻『こわれた腕輪』に登場するテナーは、その後、ゲドと結ばれることになるが、三部作の中では、期待されながらも成就することはなかった。前期三部作は、西欧的なロゴス優位の観念的世界の色が濃く、テナーの存在は、ユング心理学でいうアニマの地位に甘んじており、主眼はあくまでも、魔法使いゲドの心的成長であって、視界を遮られた灰色の海や暗黒の洞窟は、そこがゲドの内的世界であることを象徴していた。

それに比べ、『帰還』以後、物語は、ゴントの山にせよハブナーの王宮にせよ色彩や遠近のくっきりとした外的な世界が舞台として選ばれている。唯一の例外は死者と生者を隔てる石垣の続く灰色の場所だが、誰もそこにかつてのゲドのように、リアルな世界の地続きの場所として入り込んでいくことはない。そこは、あくまでも異様な世界であり、非日常的な場所、たとえば夢で訪れる場所のように描かれて、登場人物が生きる場所とは隔絶されたところとして描かれている。

そこに、作者の中で、魔法を操る世界が、肯定的なものでなくなり、禁忌とされるものに変わりつつあることが暗示されている。かつては、特権的なものでなく誰もが使うことのできた「手の技」が、太古の力と切り離されてゆく過程で、言葉を操る力と結びつくことで、それらを占有する者と、そこから排除された者との間に越えがたい壁を作り、男たちは魔法使いとして正規の学院に入り、マントや杖という権威の象徴とともにその技を継承する一方で、女たちの技は穢れたもの忌まわしいもの卑しいものとして、魔女やまじない師として軽侮の対象とされていくことになる。

西欧のロゴセントリズム、ファロセントリズムに対するフェミニズム的批判が露骨に現れた分析と見えるが、眼を西欧以外の世界に転ずれば、柳田の『妹の力』をその一つの例として、太古の力と結びついた女性的な力を表す例は枚挙に暇がない。思うに、ル=グウィンは、一度はフェミニズム的批判の眼で自分の「アースシー」世界を見つめ、あの苦渋に満ちた『帰還』を描いたのではないだろうか。しかし、その後、もともと視野の中にあった非西欧的世界に眼を向けることで、男と女が対立概念でなく、補完的な概念として立ち現れるのに出会い、女性に導かれることで、苦境を脱するという『妹の力』を連想させるメドラとアニエブの物語『カワウソ』を上梓し、ついには、魔法使いを超える太古の力に通じた「竜女」を出現させるに至る。

『ゲド戦記外伝』は、そんなことを想像させてくれる。しかし、それだけではない。あの懐かしいゲドの師匠「沈黙のオジオン」が、ル・アルビに庵を定めるに至る契機を描いた『地の骨』。若い頃のゲドに似た自尊心の強い魔法使いが己の傲慢さによって過ち、やがてそこから解放される経緯を滋味あふれる筆致で表した『湿原にて』。今まで表立って書かれることのなかった音楽と男女の恋愛を主題にした『ダークローズとダイアモンド』等々、どれも『ゲド戦記』の世界をより豊かなものにしてくれる作品群である。

現実の世界もまた『ゲド戦記』で描かれる「暗黒時代」の様相を呈しつつある。男たちは性懲りもなく殺し合ってばかりいる。王たちに使われる魔法使いの姿は見えても、「手の女」たちと手をつなぐ男の魔法使いは、どこにいるのだろうか。魔法の才もないただの男としては、せめて日々の仕事に精を出すしかないのだが、一日本を読み続けていたことで、弱まった何かが、部屋を掃き、皿を洗うという「手」の仕事によって回復してゆくことは実感できる。世界の「均衡」を保つことはできなくとも、ミクロコスモスとしての自己の「均衡」は何とか保てたようだ。ここしばらくの弱まりに気づけただけでも、『ゲド戦記』効果があったというもの。時折、挿入される箴言めいた言葉は、作者のイデオロギーが生のまま表出しているとして、ル=グウィンの評価を分けるものだが、好きな者にはよく効くらしい。なんだか、元気が出てきたような気がする。

 2004/6/6 『サムライ』 ルイ・ノゲイラ 晶文社

フランソワ・トリュフォーが、アルフレッド・ヒッチコックに長時間インタビューを試みたものをまとめた『定本 映画術−ヒッチコック/トリュフォー』という本が、好評だったこともあって、同工異曲の本が二匹目の泥鰌をねらって、その後次々と出版されることになった。これも、そのひとつと考えてもいいだろう。ただ、サスペンス・スリラーにとどまらず、次々とヒットを飛ばしたヒッチコックに比べると、生涯で十三本の作品しか残さなかったメルヴィルは、一般的に、さほど知名度は高くない。しかし、暗黒街に生きる男たちの非情な世界を独特の憂愁と孤独に満ちた画面に定着したその作品のファンは少なくない。あとがきの後に付された対談で矢作俊彦と押井守が、遺作の『リスボン特急』について語っているが、この二人も、そのひとりだったのかとあらためて、メルヴィルの映画の魅力について考えさせられた。

押井の言葉を借りれば、「メルヴィルの映画は後ろ向きの映画なんですね。これからどういうふうに生きていこうかという前向きの映画じゃない。悪く言えば浪花節ということになるでしょうが、自分の信ずるところに殉じて死んでしまう男の映画」である。何で読んだか忘れたが、「いい奴は死んだ奴だ」という科白があった。権力を握る体制につく者が、最終的には生きのびることになるのが、この世界の現実であるとすれば、それに抵抗し続けるものは宿命的に死ななければならない。矢作の言う「警察というのは、本当にイヤな奴らで、犯罪者たちに真実があるという映画」こそ、メルヴィル的な映画なのである。

コクトーの『恐るべき子どもたち』やレジスタンス文学『海の沈黙』を監督したりもしているが、メルヴィルといえば、「暗黒街」を描いたフィルム・ノワールの巨匠というのが、一般的なイメージだろう。特に、アラン・ドロンが主演した『サムライ』や、モンタン、リノ・ヴァンチュラが競演した『仁義』のヒットは、メルヴィル=犯罪映画という認識を強めた。若い頃は強面で、サン=ラザール駅にたむろする仲間の一人であったことも対談の中で悪びれもせず語っている。当時の仲間が今ではそれぞれ、警察幹部と顔役になっているのは皮肉だが、メルヴィルが、そのどちらにもならなかったのは、組織の一人になることを厭う気持ちが強かったからだろう。

「一般に、同じ共同体に属する人々の視線に規律されることを『道徳』と言い、逆に、メンバーに後ろ指を指されても殺されようとしても内なる声に従うことを『倫理』という」と、宮台真司が書いている。対談の中で、メルヴィルは、神を信じないことを公言している。神を信じない人間を律するものは「道徳」と「倫理」しかない。しかし、往々にして「道徳」と「倫理」は衝突するものだ。その時、どちらをとるかで、人間の生き方は決まる。メルヴィルは躊躇わず、後者をとる。そして、メルヴィル的世界を愛する男たちもまた同じ選択をしているのだ。それは、孤立を恐れない者のみが取りうる生き方である。メルヴィルは友情を信じないとも語っている。神も友もない人生。何と自由な生き方であることか。

主題論に偏りすぎた。監督へのインタビューであるからには、映画の撮影についてはもちろん、シナリオやキャスティングについても詳しいのは当然のこと。脚本作りから撮影、編集、監督はおろか、役者として出演もするメルヴィルは、自前の撮影所を持つ映画作りのプロである。原作と脚本のちがいの持つ意味、キャスティングの妙味、ワンカットワンシーン撮影の苦労等、映画作りの愉しさを知るメルヴィルならではの歯に衣着せぬ言葉が痛快である。

美貌はともかく、役者としての評価があまり高いとは思えないアラン・ドロンを「何か特別なものを持つ」最後のスターの一人として高く買っているのに興味を覚えた。『仁義』で共演していたイヴ・モンタンは、練習して完璧なものにして撮影所入りをするが、ドロンには、そんな努力はいらない。『サムライ』で、修理工場へ車を入れるシーンの運転技術一つとっても、天性のものを持っているという。

『ギャング』の企画を横取りしようとした映画監督からの出演依頼にピエール・クレマンティが、「いいえ!私はメルヴィル氏の映画に出るはずでしたので、あなたの映画に出たいとはこれぽっちも思いません!」と答えたことに意気を感じ、いつかは恩返しをしたいと思っているというメルヴィルがいい。『昼顔』のクレマンティが、歯に挟まった物をせせる様子や、決め込んだ格好でブーツを脱いだとき、よれよれの靴下が出てくるシーンを思い出した。二人の思いにもかかわらずクレマンティは麻薬所持で逮捕され、メルヴィルの映画に出ることはなかった。なぜなら、ポオと、ロンドン、そしてハーマン・メルヴィルを敬愛し、自分の名前まで、メルヴィルに変えてしまった男、ジャン=ピエール・メルヴィルは、1973年8月に55才の若さで急逝してしまうからだ。

表紙はトレンチ・コートのボタンを最上部までかけ、ソフトを目深にかぶったドロンの横顔が銀と黒のモノクロームであしらわれている。副題は「ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」。

 2004/6/1 『本棚の歴史』 ヘンリー・ペトロフスキー 白水社

フィリップ・アリエスの『子どもの誕生』を読むまで、「子ども」時代というのは、ずっと、昔からあったものだと単純に思い込んでいた。子どもというものが、単に小さな大人としてみられていた時代が長く続いたことを、この本ではじめて知った。それまでは、歴史的な価値をあまり認められてこなかった風俗資料にまで目を通し、既成の歴史学とはちがった角度から人間の歴史を見直すアナール学派の登場は、目にしていながら見えなかったものをあらためて考えさせる契機となったことはまちがいない。

ヘンリー・ペトロフスキーの『本棚の歴史』は、それを思い出させる。本についての書物を挙げだしたらきりがない。それに比べて、公共図書館であっても、書斎であっても、そこに本がある限り、必ず存在しているはずの「本棚」についてまとまった考察を述べた本というのをあまり聞いたことがない。一種の盲点になっていたわけである。とはいうものの、この本、ただ本棚についてばかり書かれているわけではない。本棚という視点を押さえることで、その上に乗る本というものが却って明らかになる仕掛けになっている。原題は「The Book on the Bookshelf」そのものずばりという題名である。

アルブレヒト・デューラーの有名な「書斎の聖ヒエロニムス」をはじめとして、挿入されている木版画が楽しい。版画自体もだが、その版画に描かれている背景としての本や本棚を、まるで推理小説に登場する名探偵のように、実に精緻に読み解いていくその読解技術には、ほとほと舌を巻く。同じ聖ヒエロニムスを描いたデューラーの木版画三枚を時代順に並べて、背景に描かれた本の置き方に注目するところなど、知的興奮を満喫することができ、下手な推理小説顔負けである。

この筆者の考証癖に付き合っているうちに、本と本棚の変遷が知らず知らずの裡に説き明かされていくのだが、パピルスによる巻物状の巻子本にはじまり、それが次第に表紙付きの折りたたんだ冊子本(コデクス)に代わり、中の用紙も、パピルスから仔羊革に、そして紙にと変化してゆく様が、本棚の変遷から語られるのが新鮮である。そういえば、映画『ベン・ハー』では、巻物状の本を部屋の棚に平積みしていたなぁなどと、思い出した。活版印刷ができるまでは、修道院の中、天板の傾斜した机の上で、修道僧が貴重な書物を写し取るのが常であったことは、これも映画『薔薇の名前』で見た通りであった。

何より驚いたのは、本は背表紙をこちらに向けて棚板の上に垂直に立つのが当たり前だと思い込んでいたことが、『子どもの誕生』における子ども同様、とんでもない思いこみであったことを知らされたことである。冊子状になってからも、本の表紙には、題名や作者などが記載されることはなく、最初の一行が、その識別する手がかりになっていたという。必然的に、本は前小口をこちらに見せて並べられていたが、それを証すのも、古拙な木版画である。意外なことに背表紙の歴史はずいぶん新しい。本を統一した意匠で装幀するという流行が生じた16世紀になって、はじめて、同じ体裁の本を識別する必要上、背に文字を入れる習慣が生まれたのである。

現在では、公共図書館における本棚の並び方は、壁際を埋めながら、フロアにも並行に幾つもの本棚を並べるという、ウォール式とストール式の併用が主流だが、これらが、現在の形に落ち着くまでの様子は実に興味深い。盗難を防ぐため鎖に繋がれた本の中から、お気に入りの一冊を取り出すための苦労など、たっぷり挿入された図版から、当時の人の読書の模様などを窺うのも一興である。スチール式の本棚が登場する頃から、少し、興味が薄れるのは、現代に近づいたことから来る既知感が邪魔をするからで、筆者の所為ではない。

本好きを自認し、書斎とは言わずとも、本を蒐集することにかけては人後に落ちぬ読書子なら、何を置いても一読する価値のある一冊といえよう。
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