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 2004/4/29 『骨董屋の非賣品』 勝見充男 晶文社

何事にも中途半端で、あれこれと手を出しかけるのだが、これだけはというものがない。それだけに、何とか一筋という人の話を読むと、羨ましいと思う半面、たいへんだろうなあ、といういらぬ心配をしたりもする。

著者の勝見氏は、東京は代々木上原で「自在屋」という骨董商を営む本物の骨董商である。商売なのだから、商う品物は売り物、買い物。それにいちいち愛着を感じていたりしては、骨董商は勤まらない。とはいうものの、もともとが趣味が高じてこの仕事に入った人たちである。自分が惚れ込むほどの物でなければ、大枚をはたいて購う気にもならないだろうし、逆にそれだけ惚れ込んだ物を人に譲るのは、筆舌に尽くしがたいものがあろうというものだ。欲しいから金を貯めては買う。ところが、そうして自分の手許に集めたコレクションも、さらにもっと欲しいものが現れると、それを買い求めるために売らなければならない、このジレンマ。

「骨董屋は非売品を持つな」というのがこの世界の掟らしい。ところが著者はそれに異を唱える。氏にとって、「取り扱う品物は、すべからく自分の分身なのである」。その勝見氏が、骨董に興味を持ち始めた若い頃から現在に至るまで、常に身辺に置いた偏愛の小物たちを紹介しつつ、氏独特の骨董美学に蘊蓄を傾けた、いわば好事家向けの一冊。そう言うと、興味のない人にはつまらない本のように思われるかもしれないが、さにあらず。一つ一つの品にまつわる思い出話や、この世界ならではの逸話に事欠かない先輩の骨董商たちのエピソード、と読んでいて興味が尽きない。

若い氏がまず心惹かれたのは、日本では歴史の浅い西洋骨董であった。「初級編」は、骨董商というイメージからはほど遠い、洒落者の奇人たちの織りなす非日常が哀歓こもごも描かれている。「メンズクラブ」や「GORO」、くろす・としゆきの『トラッド歳時記』などという雑誌や本を共有する世代には懐かしい時代の空気のようなものが流れている。古いアルバムをめくるときのひんやりとした部屋の空気が甦り、鼻の奥につうんと来るものがある。

季節の移り変わりに絡めて酒器や茶道具という身辺に置く道具類について触れた随筆風の文章を集めた「中級編」は、すでにひとかどの骨董商としての風格を見せ、独自の美学らしきものを漂わせている。仏教美術や大和絵という古美術の世界に入っていく「上級編」になると、長年馴染んだ友人が偉くなっていくのを傍らで見るような寂しさを感じたりもするが、紹介されているのが、英国の教会のタイルだとか初期伊万里の陶片だとか、あまり威圧感を覚えるような物でないのが救いである。

しかし、それでも高価であるのはまちがいない。コレクションの一つとして本物の円空仏などを見せられると、机の上に複製品を飾って喜んでいる身分としては、少々辛い物がある。一途に何かを追い求めた人の姿というものは、そうでない凡庸な者には、唯々、目の毒、気の毒なものなのである。そうかといって、かねてより気になっていた意中の五輪塔を手に入れた氏が、「家に着くなり、たまたま家内が留守ということもあって、五輪塔ともども、すっ裸になって風呂場に入」り、溶け出した泥で泥沼のような湯船に使っている様子を読んだりすると、伊達や酔狂で入れる世界ではないのだと、かえってあきらめがついたりもする。季節の酒と杯の合わせ方など、酒好きには参考になろう。大屋孝雄氏の写真ともども、傍に置いて時折眺めるに相応しい美しい本に仕上がっている。

 2004/4/28 『磁力と重力の発見 1』 山本義隆 みすず書房

プリニウスだの、パラケルススだのという澁澤龍彦や種村季弘の本でよく目にした名前が出てきて、何だかとても懐かしい気持ちになった。磁力と重力を鍵語にして、素人にも分かる平明な科学史を書こうという著者の目論見は、第一巻を見る限り成功しているのではないか。三巻に及ぶ大部な著作になるはずだが、語り口のせいか、歴史物語の講話を受けているような、余裕に満ちた読書体験をさせてもらった。

第一巻は、古代から中世の時代を扱っている。洋の東西を問わず探し集めてきた文献を手がかりに、磁石あるいは磁力というものが、当時の人々にどのように受け止められてきたかを初学者にも分かるように丁寧に解説してくれている。当時の人々と言っても、その時代に磁石や磁力について何かを書き残しているというのは、一流の知識人に限られる。プラトン、アリストテレスは言うに及ばず、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスと綺羅星の如く並ぶ錚々たる顔ぶれに、何やらこちらまで偉くなったような錯覚に陥ってしまいそうだ。

科学史というと、何だか専門的で難しそうな気がするが、当時の人にとって磁力というものは、得体の知れない不思議な力であった。磁石が鉄を引きつけるという事実は多くの人の経験するところだが、そこにどんな力が働いているのかを理解するということになると、見えないだけに厄介なことになる。山羊の血やダイヤモンドを鉄と磁石の間に置くと、その力はなくなるなどという憶説が、何百年にも渉って当時の知的エリートたちに疑いもされずに語り継がれてきたなどと聞かされると、なあんだという気にさせられるが、話はそうは簡単ではない。

すでに理屈を知ってしまった後代の者から見れば、磁力をめぐる奇妙にさえ見える試行錯誤の繰り返しのなかに、著者は「知」というもののあり方を見る。引用された文章についての丁寧な解説から分かるのは、錯誤や混乱に満ちた文章の奥に広がる科学的な思考の、緩慢なそして時には飛躍的な、発展である。それは、時には現代の理論物理学の萌芽のようにも見えたりする。さすがに、そう言ってしまうことには躊躇いがあるのか、著者の語り口は冷静だが。

科学的な思考の発達とキリスト教神学の関係も、一概に敵対するものとは言えない。キリスト教はプラトンのイデア界を神の世界と重ねあわせることによって、勃興する科学と共存してきた。しかし、アリストテレスの場合はプラトンのようにはいかない。神学を否定することなく、いかにして科学的な思考を公にするかということに、科学者ばかりでなく、キリスト教の神学者の果たしてきた役割の大きさにあらためて気づかされた。この時代、科学と神学、或は魔法、魔術もそうだが、現代のように截然と分けるわけにはいかなかったのだ。

科学史というより、人間の知というものの発達史と言った方がより適切だろう。大学の大きな教室で講義を聴くのではなく、市井の賢人の隠遁所を訪ねて、部屋中にあふれた万巻の書に囲まれ、暖炉の火を前に、腰を落ち着けてじっくり話を傾聴する。そんな趣をもった良質の解説書である。二巻、三巻が楽しみだが、ルネッサンスまではいいとして、近代、現代に近づいてもこのように楽しく読めるかどうか、科学に疎い読者としては少しばかり心配でないこともない。

 2004/04/17 『小さな町で』 シャルル=ルイ・フィリップ みすず書房

フランスの中央部に位置する人口二千人足らずの小さな町セリイを舞台に、そこに暮らす市井の人々のつつましやかな日常を、鮮やかに切り取って見せた短編小説集。家族の誕生や死、隣人との小さな諍い、時折起きる事件とも言えぬできごとを、乾いた筆致でさらりとスケッチした独特の作風は、小さなものを愛でる日本人によって殊の外愛され、他国に比べ根強い人気を持つという。映画の原作にもなった『ビュビュ・ド・モンパルナス』の名前だけは知っていたが、フィリップという作家は読んだことがなかった。

ヨーロッパ随一と言われる一万ヘクタールにも及ぶトロンセの森に囲まれた小さな町は木靴職人や家具屋、桶屋という森から取れる良質の木を使った仕事に頼る職人の町である。普段の食事はスープに浸したパン。客が来たときだけハムやソーセージ、それに葡萄酒を買いに行くという質素な生活を営む人々。『小さな町で』という題名から想像されるのは、あたたかな人々の心やしみじみとした人生の哀歓といったものだろう。

たしかにそういう話もある。田舎の人がいつまでも一つ話に語るような滑稽な逸話や子どもの心の中に入り込んだみずみずしい情感にあふれた作品も少なくない。しかし、一読後本の表紙を閉じて思うのは、非情な酷薄さと言うと言い過ぎかもしれないが、人間の生死を透徹した眼で見切ったという感じの冷たく乾いた印象である。

妻に死なれた男が、独身生活を謳歌するのも束の間、すぐにさびしくなり、新しい伴侶を一日で見つけて来るという「求婚者」。妻子を捨てた男が家に帰ってみると、そこには自分の代わりに昔の友人が妻と暮らしていた。男は、元の妻と友人、子どもたちと共に粗末な夕食をすませると、夜の町に戻ってゆくという「帰宅」。いずれも、別の終わり方もとることができる作品であるのに、あえて、そうはしない。

子どもの心理をつかむのに長けた作家だと思う。しかし、そこに描き出された子どもの心はと言えば、カービン銃を見つけた少年が犬を撃ち殺してしまう「犬の死」といい、教師の意地悪な仕打ちに対して、度重なる懇願にもかかわらず「否(ノン)」を言い続ける娘の心に寄り添った「強情な娘」、新しく生まれた弟が自分に向けられるはずの母の愛を奪い取ったと思い、嫉妬の果てに死を選び取る「アリス」と、どれもかなり暗い。

木靴職人の家に生まれたフィリップは7才で結核性の病に冒され顎が陥没するという悲劇に見舞われる。おまけに全身の発育が不全で、身長は153センチメートルしかない。長じてパリに出るが、街娼と同棲して梅毒をうつされ、最後はチフス、脳膜炎に冒されて死亡。享年35。作家の人生がその作品に影を落としているとしても無理はないかもしれない。訳者は「暗い題材を扱いながらも、フィリップはどこかにとぼけたようなおかしみ、人生そのものの諧謔をしのびこませるのを忘れない」と書くが、書き忘れた作品も少なくないように思う。

そんな中で、「人生そのものの諧謔」を感じさせてくれるのは、仲の悪かった隣同士の老嬢が、相手の引っ越しをきっかけに、友情を再発見する「お隣同士」。別れた女房と何年かぶりに町で出会って、当時は気づかなかった互いの良さを見つけながら、結局は今の結婚生活に戻らざるをえないというよくある話を描いた「再会」は、甘さの中に苦さを封じ込めた大人の味を感じさせてくれる。他にも、味わい深い佳作が並ぶ。シリーズ「大人の本棚」に相応しい小品集である。

 2004/04/17 『完全なるワーグナー主義者』 バーナード・ショー 新書館

クラシック音楽もたまには聴くが、よい聴き手かどうかは自信がない。好みが偏る上に、気分転換を目的として聴いたりする勝手な聴き手だからだ。おまけに、音楽理論に疎く、理解という点では本を読むようにはいかない。それでも、好きかと聞かれたら好きだという程度には聴く方で、マーラーのようにお気に入りの作曲家もいる。

首相とちがってオペラが苦手で、管弦楽曲中心だが、その中でワーグナーだけは例外で、バイロイト音楽祭における「指輪」連続上演はVTRに録画して楽しんでいる。近年の舞台は、演出家の解釈によって装置や衣裳も現代化され、所謂オペラとはちがうワーグナー独自の楽劇ならではの趣向が楽しめることも、「指輪」を好む理由の一つだが、音楽は別として、豪華な舞台衣裳や装置を別とすればオペラにはこれといったストーリーがないのに比べ、「指輪」には伝説その他からの引用を含む多様な人物の性格や葛藤があって、話自体が起伏に富んでいて面白い。ワーグナーの楽劇を好む二つ目の理由である。

『完全なるワーグナー主義者』は、音楽評論も書いているショーの「指輪」論である。もっとも、どちらかといえば、音楽論というより文学論的であって、音楽に詳しくない者にもついてゆける内容となっている。ショーの論を簡単に言えば、『ニーベルングの指輪』四部作は、資本主義化が進行していた19世紀西欧社会を描いた寓話だということになる。

ショーが漸進主義的な社会主義者の集団であったフェイビアン協会に属していたことはよく知られている。また、皮肉屋で辛口の警句を吐くことでも有名な彼は、一方でエロス的な価値観に背を向けていたことでも有名であった。美貌で知られた女優に「あなたの知性とわたしの美貌が一緒になったらどんな素晴らしい子が生まれるでしょうね」と、言われ、「貴方の知性のなさとわたしの醜さを併せ持った子が生まれたら悲劇でしょうな」と言ったという逸話が残っているほどだ。

その反エロス的傾向は、「指輪」理解にも色濃く反映している。ジーグフリートとブリュンヒルデの愛についてはほとんど言及されることもない反面、言説を駆使し空虚な世界を現出するローゲについての言及は多い。また、四部作の完結編とも言える『神々の黄昏』を、オペラ形式への退行であるとして他の三作より低い評価を与えている点など、毒舌家として知られるショーならではの挑発的な見解が見られるのも楽しい。

大英図書館で、毎日同じ席に陣取ってマルクスの『資本論』と、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のフル・スコアを並べて、代わる代わる読んでいる若き日のショーを、ある演劇批評家が記憶している。膨大な読書量と、音楽的素養をともに併せ持つショーのワーグナー論だから面白くないわけがないが、特にそれぞれの登場人物たちが寓意する階級とその働きを読んだ後は、もう今までのように北欧神話やゲルマンの伝説を下敷きにした物語とは思えなくなってしまう。「ジーグフリート=バクーニン」とさえ表記されるのである。

ナチスとの関係からイスラエル交響楽団がその演奏会でワーグナーの曲を演奏するということが賛否両論を巻き起こすほど、政治的な話題に事欠かないワーグナーだが、かつて、革命を志し、バクーニンともう一人の同士と共に追放された経験を持っていたとは知らなかった。「革命家ワーグナー」が書いた「指輪」四部作が、何故『神々の黄昏』で、ただのオペラに堕してしまったのかという理由も、作曲家の人生と重ね合わせたとき見えてくる。ワグネリアンならずとも、楽しめる一冊である。特に音楽には詳しくないが、音楽は好きという人にお勧めしたい。

 2004/04/13 『ミュージアムの思想』 松宮秀治 白水社

ミュージアム。日本語に訳す場合、博物館とも、美術館とも訳すが、ほんとうはどちらが正しいのだろう。今まで、あまり考えたことがなかったが、実は、そこには意外に難しい問題があるらしい。梅棹忠夫と林家辰三郎の対談の引用から分かるのは、碩学二人にしてからが、東洋美術で有名なギメ・ミュージアムをギメ博物館と訳しておきながら、国立近代美術館については、「近代美術博物館」ではおかしいという理由で、その呼称を認めている。著者によれば、いかに日本語として落ち着かなくとも、「ミュージアム概念との厳密な対応においては、むしろその方が正しい」のである。

ミュージアム概念とは、伝統的には自然史ミュージアム(以下ミュージアム略)、科学、技術史、植物学、動物学、図書館、文書館、美術館、歴史博物館、歴史建造物、各種史跡を含み、近代では自然公園(国立公園、自然保護区)、スポーツ、考古学、人類学、少数民族保護区、各種科学センター、プラネタリウム、特定動植物保護領域、さらには「世界遺産」も含む。

西欧のミュージアムという概念は、「全世界を自己の裡に取り込み、世界を所有しようという一種暴力的な危険性を裡に秘めた概念である。いうなればそれは全世界を西欧の『世界システム』に組み込んでしまおうとする西欧イデオロギーである」。それに比べ、必要に応じて、美術館、博物館と、いわば一匹の魚でなく切り身をパックで買うように受け入れてきたのが、わが国のミュージアム受容であった。

ミュージアムには教養財や文化財が溢れ、そこに行けば知的な充足や精神的なやすらぎ、美的満足が得られるというイメージは、ミュージアムの思想が作り出したイデオロギーである。本来のミュージアムは、静的なものでなく西欧的な価値観で世界を一元化しようとするきわめて攻撃的、暴力的なものだが、日本を含めた非西欧圏も、近代化の過程に呑み込まれるやいなや、それを忘れてしまう。だから、「アフガニスタンの空爆で死亡、負傷した一般住民はかわいそうであるがやむを得ない犠牲者とされ、加害者責任は棚上げにされるが、『世界遺産』たるバーミヤン石窟の仏像への破壊行動は人類文化に対する許されざる犯罪となる」のだ。バーミヤンの仏像破壊に対しては、よく似た感慨を抱いたものだが、ミュージアムという「制度」に知らず知らずに蝕まれていたらしい。

ミュージアムの機能とは、かつての「王」「教皇」「皇帝」に替わって、西欧近代が新たに発見した「芸術」「文化」「歴史」「科学」といった価値概念によって、新しい「聖性」を創出し、その聖性のもとで新しい「タブー領域」を確定していくものである。その聖性やタブー領域をたえず拡大していくために、コレクションに社会的な公認の価値を認め、政治的な目標にしていくコレクションの制度化が行われる。そして、コレクションの制度化を成し得たところは西欧以外の文化圏には存在しない。

かつては、豊かな恵みをもたらしてくれた鯨を、食べることはおろか捕らえることさえ野蛮だとして禁じられ、捕鯨という文化さえ否定されると、さすがにのん気なわたしたちでも、西欧の考え方にあらためて「違和」を感じたりするのだが、その淵源がミュージアムの思想にあったことは、この本を読むまで気づかなかった。ふだん何気なく受容しているミュージアム体験に隠されている西欧的価値観による世界の一元化というイデオロギーに目を開かせてくれたという点、価値の相対化を図るという意味で最近の収穫であった。

 2004/4/11 『軽い帝国』 マイケル・イグナティエフ 風行社

マイケル・イグナティエフの『軽い帝国』(風行社)を読んだ。ここのところ、「帝国」は本を選ぶときのキイ・ワードになりつつある。イグナティエフの立場はリベラル・デモクラティック・インターナショナリストのそれである。といっても、なんだかよく分からないかもしれないが、政治的にはリベラルで民主的な立場だが、一国主義をとらず国際的な視野に立ったもの言いをするというところであろうか。

副題は「ボスニア・コソボ・アフガニスタンにおける国家建設」であるように、ここでいう「帝国」がアメリカを指しているのはいうまでもない。現代は“Empire Lite”で、たばこやコーク、ビールによく使われる「軽い」という意味のLiteが帝国にかぶさっているのは、皮肉な意味合いが込められている。

何が軽いのかといえば、本来の帝国はその属領地に対して、長期にわたって、その安全を守り、政治的に安定化するまでのケアをし続けるものだが、それには膨大なコストがかかる。かつてのローマ帝国は、故国を遠く離れたアフリカにある属領地に至るまで、ほぼローマと同じ生活が送れるような道路、水道等のインフラを保証していたことは、マグレブを旅していて、実際に眼にし、驚いたのを覚えている。

アメリカは、自国を帝国だと考えていない。しかし、他を圧してあまりある巨大な軍事力の誇示一つとってみても、まちがいなく帝国としての働きを行っている。イグナティエフは言う。「もうそろそろ気づいてはどうか」と。このジャーナリスト上がりの学者は、アメリカがボスニアやコソボ、アフガニスタンに介入したことは、人道的介入として認める立場をとる。もし、そうしなければ、民族浄化の果てに少数民族はジェノサイドされ、勢力が拮抗している場合は、はてしなく内紛が続いていたはずだというのがその理由である。

しかし、ボスニア、コソボ、アフガニスタンそれにイラクを付け加えてもいいが、アメリカが軍事介入した後のその国が決して順調に国家として復興しているかと言えば、そうではない。むしろ、ほとんどみじめな状態に置かれている。宗教や民族のちがいをこえて、アメリカ流の民主主義が、そう簡単に根付くはずもなく、混乱から脱し切れていないのが実態である。

アメリカが、「軽い」帝国たらざるを得ないのは、民主主義政体を持つアメリカでは、大統領選挙が行われるたびに国家予算の支出について、国民の審判を仰がなければならず、膨大な予算を食う「帝国」的な在り方は与党にとって不利だからである。つまり、選挙が近づくにつれ、軍事その他の支出は縮小されざるを得ない。植民地的な国家は、そのために、ごく短期間に独立国家の体裁を整えることを要求される。ローマが帝国であり得たのは、征服した諸民族が独立した属領国家になるまで、執政官や軍隊を常駐させ、反乱を抑え込むことを徹底して行ったからである。それができないアメリカは、「軽い」帝国といわれても仕方がない。

評判の悪い帝国主義と「帝国」はちがう、というのが近頃の受けとめ方らしい。冷戦後の世界の様子を見るとき、パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)が現実的な選択肢として浮かび上がるのも故なしとしない。著者の考え方には必ずしも与しないが、アメリカ軍即時撤退が、必ずしもベストな選択ではないというのが分かるという意味でも、今日的な意義を持つ一冊である。

 2004/4/4 『テクストから遠く離れて』 加藤典洋 講談社

およそ、小説について何かを語ろうと試みたことのある者なら、そのなかで、作者について言及することをためらいはしなかっただろう。書かれた物を統べる唯一の存在として作者が君臨することは、古い時代はともかく近代以来、疑われることはなかった。

ところが、構造主義が世界に登場してよりこの方、作品は作者から切り離されるのみか、「作者は死んだ」と言われ、作品と作者を結びつけて論じる批評的な試みは時代錯誤的であるとして退けられてきた。作品は織物を意味する「テクスト」として受容され、作品を統一する特権者としての作者の呪縛が解かれることで、読者の多様な読みが開かれるという点で、それは画期的であり、批評の主流は、それまでの作家論的な批評からテクスト論的批評へと移行した。

しかし、どのような思想も時代的な制約を受けており、次代からの批判は免れない。西欧中心主義、言語中心主義的な偏った世界観から自由になるという意味では、構造主義はまさに解放の思想潮流であったわけだが、世界を共時的に見て、近代的な世界観と「野生の思考」を並置する構造主義的な思考は、硬直化した世界を解きほぐし、価値の相対化をもたらしはするものの、新しい普遍的な価値の構築という方向への動きははじめから禁じられていると言える。

構造主義に対する批判は、フーコーに代表されるポスト構造主義者と呼ばれる一群の思想家たちを生んだが、一度死んだものが甦ることはなかった。作者の死は、そこでは「主体の死」の言説として、ニーチェの「神は死んだ」を模して「人間は死んだ」とまで表現されるようになったのである。

加藤は、そういう潮流に対し、デリダやフーコーを嚆矢とするテクスト論の誤謬を突くとともに、自身の読解を例にして「作者」抜きのテクスト論的批評では不可能と考えられる新しい小説群に対する批評を試みている。採り上げているのは大江の『取り替え子』、阿部和重の『ニッポニアニッポン』、村上春樹の『海辺のカフカ』、そして三島由紀夫の『仮面の告白』である。

加藤は、一般に作者と括られる存在が、事実その作品を書いた「作者」と、読者が作品を読みながらそれを書いたと考える<作者の像>の二つあり、テクスト論者はその二つを混同したまま一緒くたに切り捨ててしまったと非難する。作者一般を切り捨てたために、従来のテクスト論では読めない、あるいは読んでも充分に理解したと言えない作品が、近頃現れてきている。時代は一回りして脱テクスト論の読みこそが今求められているのだという。

「作者の死」と言うとき、はじめから存在しない作者には喪失感がない。あえて、作者を死なしめてこそ、あるはずのものがなくなったという効果を生じさせることができる。作者から完全に切り離された無名者によるテクストには、そういう効果は期待できない。「誰が話そうとかまわないではないか」という発言をあえてベケット(有名な)の言葉として引用するフーコー自身の侵している誤謬を引きながら、テクスト論者の「作者の死」の中に含まれているパラドックスについて言及するあたり、なかなかスリリングな論考である。

ただ、テクスト論が切り開いてみせたのは、単に文学の世界だけでなく、世界を理解しようとする知の枠組みそのものであった。現代日本の数編の小説(それ自体はおそらくかなりの意味を持つ作品ではあるが)の読解をもってして、時代が脱テクスト論に回帰したと言うのは、鶏を割くに牛刀を用いる類の沙汰であろう。『敗戦後論』でもそうだが、ポレミックな言い方を好む論者の言葉をそのままにとる必要はあるまい。「作者の死」論をめぐる一変奏と考えたらいいだろう。なお、本書は理論編であり、実践編とも言える『小説の未来』が他の出版社から並行して出版されている。興味のある向きは併せて読まれるといい。
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