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 2003/7/31 『異界歴程』 前田速夫 晶文社

題名は言わずと知れたバニヤンの『天路歴程』を踏まえたものだが、「異界」という言葉から、何かおどろおどろしいものを想像する向きがあるかも知れないから、あらかじめことわっておく。著者のいう「異界」とは、均質化し平準化した現代日本の下層に埋もれて、今や誰もが忘れかけている、かつての伝承や習俗をひっそりと伝えている山間の集落や孤島の僻村のことである。

著者は「異界」に対して畏怖と敬意の気持ちを込め、「異俗の痕跡を求めて、列島のあちこちのこの世ならぬ伝承や風土を」訪ね歩く。白山信仰という隠された主題を導きの糸として、小泉八雲の松江から、転教者アルメイダの大分まで、八丈島、奄美大島の南海から鏡花『高野聖』のモデルとなった谷間の集落まで、編集者としての仕事の合間を見つけては、日本各地を探索し、巷間に埋もれた古書、文献を渉猟して歩いた巡礼の旅の記録でもある。

一読して感じるのは、著者の選び出した対象に対する尋常ならざる偏愛ぶりである。柳田国男が自分のはじめた民俗学の研究対象の中心に「常民」と呼ばれる人々を据えたとき、期せずしてその周辺、境界に位置した人々や、その習俗がマージナルなものとして次第に民俗学の視野の外に追いやられてしまう結果となった。著者が着目したのはそういう人々や、彼らの伝承・風土である。「ことに、追放されたり、祖国離脱したり、自らの意志で遊行したりという、自分の居場所がなくて、常に移動している人たちには強く惹かれ」るという言葉からは、「貴種流離譚」に潜む潜在的な機能、つまり価値の転倒による既成社会の安定した秩序の転覆を夢見る浪漫派的精神が窺われる。

第1話「山の者のバラード」で採り上げるのは、説教節である。柳田、折口に先行した民俗学研究者としての一面を持つラフカディオ・ハーンだが、彼には松江市の誰も行かない被差別部落を訪れ、そこで見た大黒舞にいたく感動した事実があった。それが書かれた「俗唄三つ」という作品は、人権に対する配慮によるものか、現在では小泉八雲の作品とされるテキスト類から全文削除されている。その三つの俗唄というのが、大黒舞の中で歌われる「俊徳丸」や「小栗」などの説教節である。

寺山修司の『身毒丸』が蜷川によって再演されたこともあって、知名度は上がったと思うが、継母の呪いで盲者となって諸国を流浪する「俊徳丸」も陰謀で毒殺され土車に牽かれる「小栗」も、貴種故に、この世から追放され、流浪するが、最後には「死と再生」を経過することで、神となって祀られる。現世で虐げられている者こそが本来は高貴な存在であるのだという主題がここにはある。著者は、ハーンの来歴を調べ、両親ともにジプシーの血を引いていることや、事故によって隻眼となったこと、転地を繰り返す漂泊者であったことなどの事実から、ハーン自身がマイノリティの側に身を置いていたので、異国の被差別部落に伝わる唄にこれほど感動することができたのだと結論づける。

そうかも知れないし、そうでないかも知れない。それはともかく、柳田国男が菊池山哉に対して言ったとされる「あなたは結論が先で、その結論に理屈づける」というのは、直系を自認する前田自身にも当てはまりそうだ。もっとも、著者自身先刻承知で、そういう逸脱ぶりにこそ在野の民俗学のよさがあると自負しているところがある。そういう点を承知しておけば、これはこれで充分刺激的な論考である。

ほかにも、日本全国を旅し『遊覧記』を著した菅江真澄の出自が、菅原道真の家臣白太夫家であり、そのネットワークが、真澄の旅を可能ならしめていたという指摘や、鏡花の『高野聖』の舞台となった「天生峠」は、これまで架空の場所とされてきたが、岐阜県吉城郡上宝村にある「双六谷」ではないかという指摘など、いずれも興味深い調査結果と著者独特の発想は示唆に富む。

筆者の妻の実家、「埴科群坂城町南条鼠」の「鼠」が、動物の鼠ではなく「不審見(ねずみ)」、つまりの烽火を見極める斥候であり、全国にある鼠地名は、不寝番としての見張り、関所や番所を指す地名であることを突き止める「ネズミの話」をはじめとして、同音異義語の多い日本語の特質を活かし、ほとんど語呂合わせや駄洒落による連想ゲームの感を呈する語源探しは、直感と想像力が頼りの探索行である。

巻末の谷川健一との対談でも話題になっているが、「さいたま市」や「四国中央市」が現実に登場しつつある今、この手の学問の命脈は風前の灯火といえるのではないだろうか。今回の本では背後にあって、前面に出てくることのなかった白山信仰についてのより詳細な論考が、著者のような奇特な人によって少しでもはやく出版されることが待たれる所以である。

 2003/7/29 『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』 山田 稔 編集工房ノア

天野忠という詩人をご存じだろうか。詩人という人種が、一般人にとって、どれだけの知名度を持つのかは知らないが、どうやら、あまり有名ではないらしい。同じ日に死んだマキノ雅広の方は載っても天野忠の死は朝日に載らなかったそうだ。北園町九十三番地というのは、その詩人の住所である。この本は、自身も読売文学賞受賞者である著者が、詩人の受賞発表の記事を読み、名前と写真から若い頃奈良電でいっしょになったあの人かと思い出すところから始まる。

受賞祝いの手紙に返事をもらった著者は早速旧交を温めるべく、地図を頼りに北園町九十三番地を探し始めるのだが、尋ねあてた先は、格子戸の奥に細長い路地の続いたその行き止まりの小さな家であった。「なるほど、こんな深い穴の奥のようなところに身を隠しているのか」と、納得した著者は状袋に入れた自著を郵便受けに差し込むとそそくさと退散するのであった。歩いて行けるほどの近くに住みながら、決して一人では詩人宅を訪問できなかった著者と、分厚い詩集をやはり郵便受けに押し込みに来ながら、玄関に入ろうとしなかった詩人の、ひっそりとした交流が綴られた一冊である。妻のお気に入りは、「しずかな夫婦」だが、ここでは著者が好きだという詩を引用しておこう。

  動物園の珍しい動物

セネガルの動物園に珍しい動物がきた
「人嫌い」と貼札が出た
背中を見せて
その動物は椅子にかけていた
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
夜になって動物園の客が帰ると
「人嫌い」は内から鍵をはずし
ソッと家へ帰って行った
朝は客の来る前に来て
「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
昼食は奥さんがパンとミルクを差し入れた
雨の日はコーモリ傘を持ってきた

この珍しい動物が詩人その人であろうことは察しがつく。私が天野忠を知ったのは、小峰書店から出ている「日本の詩」というアンソロジーだった。中でも、この詩が殊の外気に入った。人を食った独特のユーモアには毒があり、エスプリを感じさせた。シナリオ作家の依田義賢は詩人を「二十世紀のいけず老人」と評したそうだが、「いけず」とは、「外面、大変、柔和であるが、内面は複雑で深い。総体的に、庶民的な地を這うような意味での、或は、大衆的(普通の)健康さを持たず、孤独で、厭世的で、不健康で、死を賛美するような点があり、人の幸を快く思わず、人の愁いを喜ぶ、悪魔的な本質の、その蒼白い神経」という意味になる。著者が一人で自宅を訪問するのを躊躇した気持ちはよく分かる。いつも一歩下がり、聞き役に徹したことと、映画好きという趣味の合うところが詩人のお眼鏡に適ったのか、著者の訪問は詩人が死ぬまで続くことになる。

杉本秀太郎との対談で、珍しく熱くなっている詩人のエピソードが紹介されていたが、杉本といえば、京都の名家の跡継ぎで、その家は文化財扱いを受けているほど。金箔職人の子で、市井の陋屋暮らしを自ら選び取った詩人が、密かな敵愾心を燃やしたことは理解できる。生涯、政治その他の大きな問題について、詩はおろか随筆においてさえ口にしなかった詩人だが、「米」という詩で見せる、ヤミ米の買い出しで摘発されれるかつぎやの女に向ける詩人の目は優しく、官憲に向ける視線は厳しい。胸の奥に刃物のような物を呑んだところのある詩人でもある。

詩人は、にしん蕎麦の嫌いな夫人一人を残して84歳で逝かれた。詩人がよく散歩した糺の森あたりは、学生時代の下宿に近く、散歩コースでもあった。もしかしたら、詩人とどこかですれちがっていたかもしれない。そんな思いを抱かせてくれる詩情溢れる一冊である。

 2003/7/26 『自分だけの部屋』 ヴァージニア・ウルフ 川本静子訳 みすず書房

『オーランドー』を出版した1928年の10月、ヴァージニア・ウルフはケムブリッジ大学を二度訪れ、講演を行っている。いずれも女性のためのコレッジで、演題は「女性と小説」であった。その時の草稿をもとに、翌年出版されたのが『自分だけの部屋』である。ウルフが座談の名手であったことは以前にも書いたが、同性のしかも若い学生相手ということもあり、いかにもくつろいだ雰囲気で語られる調子が、話術に長けたヴァージニアの語りを想像させてあまりある。

ウルフは、冒頭でこの話題には致命的な欠陥があり、けっして結論には到達できない、そしてせいぜいできることは「一つの小さな点について或る意見」を述べるだけだと言い、「女性が小説を書こうとするなら、お金と自分自身の部屋を持たねばならない」と語る。そして、なぜ自分がそう考えるに至ったかを、作家らしく作り話をして聞かせることで明らかにしたいと話しはじめる。

まず、ウルフは、オックスブリッジ(ウルフの創作)の柳が影を落とす岸辺で思索にふけっていた「私」がある着想を得、芝生を横切ろうとして、大学の祭式係に制止されたことを持ち出す。特別研究員以外は別の小道を歩けというのである。さらに、図書館で調べものをしようとすると、係にご婦人は研究員と同伴か紹介状持参の場合にのみ入館できると言われたことも。

話は料理にも及ぶ。舌平目に山鶉、ワインが供される男子学寮の午餐会と、皿の底が透いて見える肉汁のスープと牛肉、青野菜、じゃがいも、それに干しプラムとビスケットと水の女子学寮の晩餐との比較。「彼女の作品を読むときには、食事の描写の部分に目をつけると、決まって教えられる点があります。必ずいいのです。いかにも感覚的な楽しみに敏感な女性だと思わずにいられない」と、E・M・フォスターが言う通りに、前者はとびっきり美味しそうに、後者はなんとも不味そうに、いささか公平を欠くとさえ感じられるほど最大限の誇張表現を用いて語られる。簡単にいえば、男性が尊ばれ、女性が貶められるイギリスの家父長制社会の批判である。

次に、ロンドンに戻った「私」は大英博物館の読書室の中に、いかに男性が素晴らしく、女性が劣っているかを書いた本が多いかを例を挙げて論証する。著名な文人の中にある男性優位の意識を完膚無きまでに暴いてなんとも見事である。さらに、シェイクスピアの妹ジュディスを登場させ、兄に劣らぬ才能を持つ彼女が当時の社会では自滅してゆかねばならなかった様子を書き出し、女性がものを書くということに対する偏見の前で、作家として立つことがいかに困難を極めるかを、17世紀から現代に至る女性作家の数々の例を挙げながら語り続ける。

たしかに、今となっては、少々時代遅れの気がしないでもない部分もある(ついこの間までイギリスは女性首相に率いられていたのだ)。しかし、ウルフが、本当に言いたかったのは、女性の地位の向上などではない。創造のためには両性を具備する必要があり、女性が女性を意識しなければならないことは創造の場において致命的だということである。それを確保するために必要なのが経済的自立と精神的独立なのである。

講演の最後に至ると、それまでの皮肉交じり、軽口交じりの調子は影を潜め、年若い学生に向けての期待が前面に押し出されてくる。過去に比べれば恵まれた立場にある現代の女性の中から、過去において偏見に抗いながら、物を書き続けてきた女性たちの意志を継いで、よりすぐれた書き手、より素晴らしい女性が現れることを期待して話は終わる。それはまた、ウルフが、イギリスの女性文学という長いリレーの中で、大事なバトンを託され、次に渡さねばならないという自負と使命感を示すものでもあった。

 2003/7/25 『オーランドー』 ヴァージニア・ウルフ 杉山洋子訳 国書刊行会

奇想天外な幻想小説とでも紹介したくなる『オーランドー』だが、副題には「伝記」と記されていて、この信じがたい物語を作者は伝記として読むように示唆しているのだなということが分かる。始まりは16世紀、ところが、最後は自動車の走る現代で終わる。しかも、主人公オーランドーは四世紀を股にかけて詩を書き、恋に生きるだけではない。何と17世紀末あたりで、女性に変身してしまうのである。

オーランドーが起居する館は中世以来の歴史を持ち、「一年の日数に倣った365の部屋と週の数を踏まえた52の階段があり、大小7つの中庭は週の日数を表している」と書くと、これは作者の想像上の産物だろうと考えたくもなろうが、実はこの館は実在している。20世紀半ばまで、名門貴族サックヴィル家代々の本拠であった。

『オーランドー』には様々な仕掛けがあり、読者の知識如何によっては、何通りもの楽しみ方ができるようになっているが、ここでは「伝記」の意味について触れてみたい。実は、この書はウルフ崇拝者の一人であったヴィタ・サックヴィルに捧げられている。両性を生きた詩人オーランドーに、『大地』という詩集も書き、男装の同性愛者としても有名なヴィタの影を見るのは容易い。しかも、その行状は、歴代の館の当主の事跡になぞらえてある。つまり、『オーランドー』は、サックヴィル家の年代記であると同時にヴィタの伝記でもあるのだ。女性であるというだけで館を相続することができなかったヴィタだが、敬愛する女性が描いた本の中で、我が物顔に館を闊歩出来るという仕掛けだ。『オーランドー』が「文学の中で最も長くて最も魅力的なラブ・レター」と称される所以である。

詩人であるオーランドーは、4世紀に渉って詩を書き続ける。それぞれの時代の文人たちとも交遊し、影響も受ける。その詩は、ちょうど4世紀に渉る英国詩のパロディとなる。『オーランドー』は、英国詩或いは英国文学の「伝記」になっているといえるだろう。因みにオーランドーが女性に変身した17世紀というのは、それまで男性の天下であった文学の世界に女性が登場してくる時代でもあるという。

ヴァージニアは座談の名手だったようだ。機知に富んだその話しぶりは仲間内の語り種になっている。ところが、皮肉なことにウルフは、一人の話者が神のような全知視点を持ち、登場人物を思うように操って物語を語り進めてゆくそれまでの小説を批判して、登場人物の意識の流れを追う実験的な小説を試みていた。それだけに、自分の思いをあけすけに語り、思う存分逸脱することのできる特権的な語り手の存在を自らの小説では封印してきた。『オーランドー』では、その鬱憤を晴らすかのように、伝記作家という人物を登場させ、言いたい放題おしゃべりをさせている。軽やかで華やかで饒舌なウルフがそこにいる。

『ダロウェイ夫人』『燈台へ』『波』と、それまでの小説とは一線を画した、人間の心理の襞に分け入り、人生とは、死とは何かを追い求めたウルフ特有の心理小説群を読むのは他の小説では代え難い喜びである。とはいえ、おおよその性格を想定し、後は人物を気儘に動かせばいいという小説ではない。外界と内界を照応させ、一時もじっとしていない人間の心理を追うことは文字通り彫心鏤骨の作業であったろう。

「騙し絵」めいた仕掛けを駆使し、意匠を凝らして拵えられた『オーランドー』だが、これを書いている時のウルフの気持ちは、三部作を書いている時とはかなりちがっていたのではないかと想像される。宿阿ともいえる精神的な病に終生苦しんだウルフのために、何よりそれを喜びたいと思う。

 2003/7/24 『燈台へ』 ヴァージニア・ウルフ 伊吹知勢訳 みすず書房

時は20世紀初頭。スコットランド、ヘブリディース諸島にあるスカイ島で夏休みを過ごす哲学者の一家。そこに招待された客たちも加わり、小説世界のお膳立てはできた。とはいえ、何か物語めいたものの始まりを期待されるなら、貴方はこの小説の舞台である島には招待されることのない客である。なぜなら、作者はあのヴァージニア・ウルフ。それまでの小説を「人生は左右対称につけた馬車のランプの行列」ではない、と切り捨て、「意識の始めから終わりまで我々を取り巻く光臨、半透明の外被」をこそ描かねばならない、と「意識の流れ」に基づいた近代小説の誕生を高らかに歌い上げた女性なのだから。

文学史では聞き及んでいたが、「意識の流れ」の手法で書かれた小説を、これまで「意識」して読んだ覚えがない。くるくると話者が入れ替わり、その度に視点が転換するめまぐるしい手法に、はじめての読者は少々戸惑いを覚えるかも知れない。しかし、一度その流れに乗れば、小説世界はまるで現実の世界のように自分の目の前に展開される。これまでの小説が、映画や舞台のように客席から眺めていただけで、自分は単なる傍観者であったに過ぎないのだと、あらためて思い知らされるほどに。

しかし、ウルフの作品は、単に実験的な作品というだけで人口に膾炙しているわけではない。その詩人的な感性、直観力に付け加え、父から学んだ広範な知識、教養に裏付けされた引用、それに何よりその構成の緻密さが独自の作品世界を構築している点にこそ愛される所以があるのだ。たとえば、ウォルター・ペイターがいみじくも言った「すべての芸術は音楽の状態に憧れている」ことを証明するかのように『燈台へ』は、ソナタ形式で書かれている。

全体は三部に分かれ、それぞれが、提示部、展開部、再現部を受け持っていることは、音楽に詳しくない者でも理解できるほど整然と構成されている。話者の視点の転換が、まるで楽曲の中で楽器奏者が次々と入れ替わり、主題を変奏する時のように、ある時は緩やかに、またある時は急テンポで奏でられてゆく。主題は題名にもある「燈台行」であるが、主題を巡って登場人物の心理、感情の揺れ動きを音楽を聴くように味わうのが、この小説の最も賢い鑑賞の仕方であろう。

『燈台へ』は、作家の両親をモデルとしたラムゼイ夫妻一家を描いた小説である。哲学者としての有為の将来を八人家族を養うために脇に置き、「無駄口」と自嘲する講演で辛うじて自尊心を満足させているラムゼイ氏は、子どもたちにとっては反論を許さない暴君でもある。氏は、家庭人としての幸せを感じながらも、学者として「敗北者」であると感じる時がある。そんな時妻に同情を求めずにはいられない。一方、美貌とその性格を皆に愛される妻は、同情を請う夫には困惑を隠せないが、その精神性の気高さを愛し続けている。人間がうまく書けないと言われるウルフだが、この二人の人物像は魅力に溢れている。

提示部のクライマックスは、それぞれがばらばらであった会食者が、夫人を中心にまとまり和解する晩餐会の場面で終わる。展開部は、それから十年後、久しぶりに島にやってくる家族のために使用人が掃除をしている場面から始まる。荒れ寂れた別荘の様子が、風を擬人化した詩的な文章で描かれる。夫人と二人の子は既に亡くなっている。語り手でもある夫人の友人の女流画家が再登場すると、再現部の始まりである。再現部は、提示部で示されながら、果たされることのなかった第一主題「燈台行」が再現される。幼かった末っ子も成長し、相変わらず命令的な父に反抗しながらも船の舵を取る。やがて、船は無事に燈台に着き、互いの近しさを認めた子は父と和解する。画家が第一部以来書きあぐねていた絵を完成したところで小説の幕は閉じられる。作者自身が投影された画家が作品を描きあげる過程についての言及は、作家が作品を書き上げる過程を告白しているようで、その正直さに驚くとともに深い感動を覚えずにはいられない。

ウルフの実験的な小説世界に興味が湧いたなら、今、話題の『ダロウェイ夫人』、本作『燈台へ』、そして『波』と、書かれた順に読み進まれることをおすすめする。作家の実験がどのように進められていったかがよく分かるだけではない。小説世界に入り込むにはその方が自然だからである。

 2003/7/12 「自分以外はバカ」の時代 吉岡 忍  朝日新聞夕刊

「確証はない。印象だけがある。けれど、ぼんやりとしたその感じが気になっている。」と、作家は言う。各地を旅して、過疎の村やシャッターが閉まったままの店の続く通りといった「沈んだ光景」を目にするたび、これらの光景がよく言われる不況に起因するのでなく、もっと大きなものの喪失によるのではないか、そして我々はそれを自覚できていないのではないかと。

吉岡の言う失われたものとは、高度経済成長期のこの国を支えていた地域社会と企業社会である。もっと正確に言えば、その枠組みが支えていた人々の心性のようなものであろう。唯一神というものを持たないこの国の人々は、その時代時代に応じて自分という存在を支えるための頼りともくびきともいえるものを必要とした。二つの社会は、この国の人々の規範として、かつては確かに機能していた。

それが、バブルの崩壊の後、長引く不況下、構造改革やグローバル・スタンダードのかけ声に押されるように、或いはそれ以前から、少しずつまるで水が蒸発するようにわたしたちの周りから消えていった。人々は、ばらばらに生きるようになり、それと同時に、吉岡の言う「自分以外はみんなバカ」という風潮がこの国を席巻しはじめたのだ。

高度産業社会にあっては、誰もが何かの専門家として学び、働き、生きている。一つの分野に精通しているという自負は大事だが、それが、そのまま周囲や世間に対する態度となって「自分だけがよく分かっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだ、と言わんばかりの態度がむんむんしている」と。この感じはよく分かる。

大きい問題からいえば、憲法や教育基本法を取り巻く現状がそうだ。それらの成立した事情や今に至る歴史を顧慮することなく、「戦後の呪縛」だと捉え、その桎梏から逃れるごとく、短兵急に法改正を急ぐ国会議員たちの言動に、それを感じる。日常的には、身の回りで、ブラウン管の中で、或いはネット上で交わされる会話の中に、他者に対する尊敬の度合いが限りなく軽くなってきているのを感じる。

自分以外はバカだと感じているのだから、他者の内側を理解したり、他とつながろうなどとは思わない。国の内外に山積する難問を前にしても、外側から見れば「大仕掛けな見せ物」程度にしか見えないだろう。責任ある立場にいる人間が、威勢よく断じる態度が露骨になってきている。そういう人物が人気を博したりもするが、上は行政の長から、下は大衆に至るまで「そこに内在する歴史や矛盾を切り捨て、自己の責任や葛藤を忘れて」いるのだ。

作家はこの国の低迷は始まったばかりで、今後いっそう深く沈み込んでいくという暗鬱な予感を語る。残念なことだが、この予感は外れそうにない。夕刊の文化欄に見つけた短い文章だが、顧みて考えさせられるところが多かった。謙虚さを失わずにいたいものだと切に思った。

 2003/7/8 『銀の仮面』 ヒュー・ウォルポール 倉阪鬼一郎訳 国書刊行会

英国ゴシックロマンスの濫觴、『おとらんと城綺譚』を書いたのはホレス・ウォルポール。実際にロンドン郊外に城郭風の住まいを建築し、そこでこの物語を執筆したという。さすがに血は争えないものだ。その子孫にあたるヒュー・ウォルポールは、コンウォールに居を定め、数多の怪奇幻想小説を執筆する。その代表作とも言える『銀の仮面』を「奇妙な味」という言葉ではじめてわが国に紹介したのは、あの江戸川乱歩であった。ひとり暮らしの中年女性の母性をうまく利用することで、その家に少しずつ近づいた男が、最後には家族ぐるみで家を乗っ取ってしまうというのが、そのあらすじである。善意の隣人が次第に悪意ある占拠者となるという、近頃では、時々見かけるパターンの作品だが、この作品をもってその種の恐怖を描いた作品の嚆矢とする。

乱歩が「奇妙な味」と名づけた訳は、犯人が通常のミステリには出てこない型の人物であったからではなかったか。イノセントの悪とでも言おうか、『銀の仮面』を例にとれば、最後には当主である婦人を一室に閉じこめてしまう青年は、外見はあくまでも美しく、物腰もやわらかで、第三者から見れば、悪意なぞかけらも見えないという紳士的な人物として描かれている。彼の悪意を知るのは、主人公ただ一人で、しかもそれを誰にも証明することができない。もし、自分一人が目をつむれば、どこにも犯罪の匂いがしない、そんな犯罪を描いた作品に、乱歩は「奇妙な味」を感じたのである。

『銀の仮面に』に限ったことではない。ウォルポールの作品には、この種の人間の心理のあやを巧みについた佳編が多い。たとえば、『敵』。チャリング・クロスロードで小さな書店を営む独身男は、自分の仕事を愛し、必要以上に他との接触を欲していない。ところが、この男の家の近くに住む隣人は、何が気に入ったのか、彼を話し相手にしようとしていつも待ち構えている。男はこの隣人を敵だと認識する。ところが、彼が死んだ後、男は急に彼の存在が愛おしく思えるようになる。絶対に自分と接触できなくなってはじめて相手に対する愛情を認識するという皮肉。しかし、自分に対する過剰な干渉は不愉快だという、この心理は、当今の読者ならたやすく感情移入できるだろう。実際、今読めば、主人公に対する共感の率がふえ、物語世界を破壊しかねない設定である。

ウォルポールの作品には、多くの人物は登場しない。いつも、主人公は孤独な存在であり、彼或いは彼女を理解できるのは、彼等自身か、彼等に憎まれながらそれを知らずにいる相手役くらいのものだ。この作者を特徴づけるのは、自分の近くにいる人間に対するアンビヴァレンツな感情が引き起こす葛藤を描く物語群である。内向的な人間にとって、遠くにいる人間ははじめから視野の外にある。普通、一般の人間なら、自分の周りにいる多くの友人知人に拡散していく愛憎が、この種の人間にとっては、近くに人がいないために、たまたま近くにいる数少ない友人に集中的に投影される。その過剰な投影は必然的に歪みを帯び、愛するが故に憎むという二律背反的な心理を呈するに至る。

超自然の怪異や、人間心理の陰影を鮮やかに切り取った作品を並べた短編集である。いかにも怪談といえる作品も何編か収められているが、おどろおどろしい恐怖怪異譚はあまりない。日常的な営為の中にあって空間に裂け目が生じることがある。その小さな切れ目から入り込んでくる「向こう側」の世界を、淡々とした筆致で描くのがうまい。静かな冬の炉端、灯りを落とした室内で、ゆっくり賞翫するに相応しい佳編揃いのアンソロジーと見た。
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