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 2003/4/25 「バルビゾン派〜印象派展」       岡崎市美術博物館

丘の上に立つガラス張りのファサードが印象的な岡崎市美術博物館は、マインドスケープ・ミュージアムという名で呼ばれている。ランドスケープが景観という意味であるならマインドスケープは心象風景とでも訳せばいいのだろうか。見る側の内面へ迫ろうとするかのように、美術館自体は、丘を掘り下げた地下にある。陽光降りそそぐエントランスからエスカレーターで降りると、そこが外光を遮断した展示室。日常から非日常空間への転換を誘う心憎いばかりの演出である。

19世紀初頭、官展であるサロンのアカデミックな絵画に反発し、アトリエを出て野外で絵を描く画家たちが現れた。彼らが集ったのがパリの南東約60qにあるフォンテーヌブローの森である。バルビゾンは森の北西にある村で、多くの画家がそこを拠点に絵を描いたことからいつしか、そうした画家たちを「バルビゾン派」と呼ぶようになった。日本では農民画家として知られるミレーやコローなどが有名である。

ところで、それまでの絵画というのは、歴史画にせよ神話の世界を描いたものにせよ、たとえば百合なら清純の寓意というように、描かれたものは花であって花でない、いわば記号であり象徴であった。図像学という学問が成立するくらいだから、絵を眺めるにはそれなりの知識や教養が必要とされていた。そこでは、ただ目の前にある風景を写すことには何の価値もなく、風景は人物やできごとの「背景」でしかなかった。当時のフランスで絵と言えばまず歴史画のことであり、当然「風景画」の位置づけは高いものではなかった。

ところが、お隣の英国では戦争の影響でイタリアへのグランドツアーが廃止されたこともあり、自国の風景に対する意識が芽生え、ターナーやコンスタブルなどの風景画に対する評価が高まっていた。また、コンスタブル経由でオランダのロイスダールが再発見されるなど、市民階層の台頭もあって特別な知識がなくとも分かる風景画が注目を浴びるようになってきていた。フランス画壇にもこの影響は及び、自国の風景を描く画家が現れた。それがバルビゾン派である。

たとえば、カミーユ・コローの『アルカディアの羊飼い』という絵。主題は、旧来の価値観を踏襲してギリシアから得ているが、画家がモチーフとしているのは紛れもなくパリ近郊の森で、人物はギリシア風の衣装を身につけてはいるものの、独特の銀灰色が強い印象を残す叙情的な画面はギリシアのそれではない。伝統的な画題に想を得ながら画家の目指しているのはかつては添え物であった風景を主として描くことである。

日本で人気の高い印象派は、このバルビゾン派の野外での制作に影響され、刻々と移り変わる自然光の下で絵を描くうちに、物には固有な色があるのではなく、光が色を生じさせていることを発見する。風景を描くことには新たな課題が発見されることになった。パレットの上で混ぜあわされると絵の具の色は暗くなる。色をあらかじめ混ぜることなくカンバスの上に並置する「筆触分割」の手法は移ろいゆく光を絵画に留めようとする手段であった。

モネの『ウォータールー橋(太陽と煙の効用)』はまさにそれを表徴する絵であると言えよう。ロンドン名物の霧か煙かに紛れて霞むウォータールー橋の手前に一際明るく落ちるのは太陽光であろうが、橋も船も朧に霞む靄のかたまりと化し判然としたものは何もなくただただ微妙な階調で描き出された光が戯れているばかり。誰かが印象派を指して「そこには対象がない」と言ったというが、描かれるものが何かを伝える記号でもなく、文学的な内面でもない、刻々と変化する光そのものを留めようとする画家の目と手が捉え得たものこそ「絵」そのものではなかったか。

 2003/4/20 『〈帝国〉』 アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート  以文社

大著である。序に「本書の執筆は、ペルシャ湾岸での戦争がまさに終わった後に開始され、コソヴォでの戦争がまさに始まる前に完了した。」とあるように、執筆姿勢はきわめて今日的な問題意識に貫かれている。世界は、この書物の執筆期間に負けず劣らず混迷の度を深めている。国連という機関の存在を無視した米英軍によるイラク攻撃という異常事態に見舞われている今日の世界を読み解く上での示唆に満ちた書物というべきか。

著者のアントニオ・ネグリは60年代イタリアの非共産党系左派の理論的指導者として知られるが、後にテロリストの嫌疑をかけられ投獄、現在は仮釈放中の身である。マイケル・ハートは亡命中のネグリが教鞭を執ったパリ第8大学で彼に師事し、ネグリが獄中で執筆したスピノザ論『野生のアノマリー』を英訳している。二人の著者は本書の中で共産主義者であることを宣言し、プロレタリアートに未来を見出している。これは現在の社会的風潮から見てもきわめてめずらしいことと言わねばなるまい。

ソヴィエト連邦の瓦解により、冷戦時代は終焉し、世界は合衆国がヘゲモニーをとる資本主義社会に落ち着くかのように思われた。ところが、政治的には、二十世紀最後の十年間は湾岸戦争をはじめとする戦争、紛争、内戦が後を絶たず、まさに世紀末的な様相を帯びることになった。経済的には「グローバル化」という言葉が盛んに叫ばれるようになったが、「グローバル化」とは単なる「アメリカ化」のことではないかという批判に見られる如く、国民国家という政治形態はその流れに脅威を感じていた。

著者たちは、この混沌たる時代に現れた「グローバル化」の動きを、従来の「帝国主義」とは一線を画し、「〈帝国〉」と名づける。つまり、「〈帝国〉」は、かつての「帝国主義」のように、一つの国民国家の主権の拡張の論理に基づくのでなく、脱領土化、脱中心化されたネットワーク上の支配装置であると主張するのだ。ドゥールーズ/ガタリからとられたと思われるこの概念は、今までにない画期的な秩序と権力の構成を示唆する。

国家という領土を持たず、国民という臣民を持たない「〈帝国〉」は、その力を行使するために、必然的に労働力を多国間の多様な人民に頼らざるを得ない。ここに、「〈帝国〉」に対する対抗勢力として「マルチチュード」が誕生する。「マルチチュード」はスピノザに由来する概念で、一般的には「群集」「多性」と訳されたりするが、まったく新しい能動的な社会的行為体であり、働くことによって自己を特異性として生産する新しいプロレタリアートなのである。

スピノザ、マキアヴェッリ、フ−コー、ジル・ドゥールーズ、フェリックス・ガタリ、ベンヤミン、ウィトゲンシュタインそれにマルクスやローザ・ルクセンブルグを援用しながら、ローマ帝国の時代から合衆国に至るまでの権力の推移とそれに対抗するマルチチュードの布置を論じる筆さばきは鮮やかなものだが、一番の問題は、「〈帝国〉」という現実的な権力と秩序の持つリアリティに対して、対抗勢力として期待されながら、現実には分断されたままの「マルチチュード」の圧倒的な脆弱さをどうするかという点にある。この大事な点に来ると、著者の語り口は荒野に呼ばわる預言者のようで、今ひとつ説得力が感じられない。ひねくれ者の評者などは、著者が「ホモ・タントゥム」と呼び、一種の社会的自殺だという「労働と権威の拒否」「自発的隷従の拒否」という在り方の方に惹かれてしまったのだった。

 2003/4/7 『未来は長く続く』 ルイ・アルチュセール 宮林寛訳 河出書房新社

現代思想を語る上で、ルイ・アルチュセールの名前を忘れることはできない。それまでの疎外論中心の「人間主義的」マルクス主義理解に対し、初期マルクスと後期マルクスの間に「認識論的切断」という楔を打ちこむことで、マルクス主義哲学を再解釈した功績は高く評価されている。

そのアルチュセールが、抑鬱症の発病による譫妄状態の中で妻のエレーヌを絞殺したとされる件で、サン・タンヌ病院に担ぎ込まれたのが1980年。判決は〈予審免訴〉ということで実刑判決を免れている。精神異常者扱いを受けることで、事件後、公民権を奪われ、発言機会を失くした哲学者=殺人犯の、これは自伝という形を借りた弁明の書とも考えられる。

アルチュセールの母は愛していた男に戦死され、その兄と結婚した。ルイというその男を忘れられない母は夫との性愛を拒否し、同じ名を持つ息子を意識下で憎悪しながらも愛を装い続ける。愛されているはずなのに愛を実感できないルイは、〈策略〉を使って教師に取り入り、愛されることで相手を支配し〈父の父〉になろうとする。父や他の男に優越する男になって母の愛を得るためだ。しかし、遂に愛されることのなかった子は「母と同じ冷淡な態度をとる、そして本当の意味で愛することのできないという醜い習性」をその身に引き受けざるを得ない。

アルチュセールは、妻が愛想を尽かす限界まで挑発や裏切りを繰り返すことで妻の愛を試そうとし続ける。自分もまた母親に愛されることのなかったエレーヌは、そういう夫を理解しながらもどうすることもできない無力感から、「自分が悪い女であり、醜い母親に過ぎない、人を苦しめ痛みをもたらす」悪女であるという幻想に苦しめられる。追いつめられた妻は凄まじいヒステリーを度々起こして「怒り狂うばかりの醜く、ちっぽけな獣にすぎない」「自分には愛してもらう資格などない」から、愛してもらっては困るというメッセージを送り続けることになる。

精神的な「サド=マゾヒストカップル」が悪循環を繰り返し、その挙げ句の果てが夫による妻の絞殺という結末の小説でも読んでいるような気にさせられる。特に少年時の思い出を語る時の瑞々しい筆致はこの哲学者の中にある作家的才能すら感じさせるが、言うまでもなくこれはアルチュセールが15年に及ぶ分析治療の後に、紡ぎ出した「物語」である。精神分析の治療というのは、自分の過去に隠されていた物語に自らが気づき、それを物語るという形で行われる。

アルチュセールのイデオロギー論によれば、人間は直接に現実と関係することができないために、想像的なもの(神話や物語)を通じて現実と結びつく。彼が自伝で明らかにしようとしたことは、生きる過程で様々なイデオロギーのよびかけに応じて生産されたアルチュセールという主体の分析と解読であった。かつて、マルクスを徴候的な読み方で読んだように、今度はルイ・アルチュセールを読み込み、再解釈したのだ。読み終えた後、アルチュセールという主体は消え失せ、種々のイデオロギーが複合的、重層的に越境し融合して主体が生産されるという構造だけが残る仕組みである。かくて物語は残り、哲学者=殺人者は消失する。鮮やかな手並みという外はない。

 2003/3/19 『滑稽な巨人−坪内逍遙の夢』 津野海太郎 平凡社

湯島境内でお蔦と力が泣く泣く別れたのは、お蔦が芸妓であったからである。将来のある若者が芸妓と一緒になることは立身出世の邪魔になる、そういう考え方が当時の世間の大勢を占めていたからこそ、『婦系図』は新派の狂言として一世を風靡することになった。ところが、である。東京大学出の文学博士がこともあろうに芸妓どころか娼妓と一緒になり、所帯を持つに至っては、世間は放っておかないだろう。しかもそれがシェイクスピアの個人全訳という前人未踏の偉業を成し遂げた坪内逍遙博士であったとしたら、なおのことである。

では、なぜ、逍遙はそんなことをしたのか。実は逍遙という人、このことに限らず、時代の趨勢とはズレていたところがある。有名な『沙翁全集』にしたところで、漱石や鴎外などの留学経験者たちには、その時代がかった訳を軽んじられていたという。どうやら江戸通人文学に精通していた逍遙は、「近代日本にとりついた『個人』と『国家』という二つの憑き物のどちらに対しても、『こんな物を支えに暮らしてゆくわけにはいかない、自分が生きる拠りどころとしてはこれでは不十分だ』と感じていたらしいのである。」

普通の人なら、自分のズレにあわてて、修正を図ろうとするものだが、逍遙はちがった。「国家」と「個人」という憑き物に目もくれず、自分の生きる拠りどころを自分で作ろうとする。もっともそのいずれもが残念ながら失敗に終わってはいるのだが、著者はその失敗の原因を逍遙に何かが足りなかったのでなく逆に過剰であったからではないかと考える。「逍遙の多すぎる夢を読みとく枠ぐみを近代日本は持っていなかった」ために、かれは周囲から浮き上がり「滑稽な巨人」として生涯を閉じるしかなかったのだ、と。

逍遙の夢の一つは、新しい日本の演劇を作ることであった。能や歌舞伎という伝統的な所作事中心の音楽劇を洗練し、思想的に高めた「新舞踊劇(新楽劇)論」がそれである。旧態依然とした旧劇でもなく、かといって西洋の翻訳劇でもない独自路線というところが眼目である。しかも、それを自分の数人の養子を教育することによって実現させようとしていた。逍遙にとって家庭は単なる団欒の場ではなく芸術運動の拠点でもあった。

夢の二つ目は学校である。国家と個人という「強力な利己主義の磁場」を離れて、逍遙が倫理の基準を求めたのが「社会」であった。「大小広狭に拘わらず、習慣的に協同する人間の集合」をできるだけ気持ちよくたもつことを考え実践することを自分の「領分」と考えた逍遙にとって、若い人を家に集め、そこで講義をしたり演劇を練習したりする「家塾」や「自宅学校」というかたちこそ理想の学校であったろう。それは、近代の制度化された学校とは対極にある。逍遙が校長をしていた間、早稲田中学では「教育勅語」の奉読はなかったという。

三つ目は「戸外劇」である。中世イギリスの都市の祭りには魚屋とか仕立屋とかのギルドのメンバーが車舞台に寓意劇を仕込んで広場を華やかにパレードする風習があった。逍遙が最後に試みたのはクロウトの俳優や舞踊家でなく、シロウトの俳優が自分たちの住む町で行うページェントであった。そこには「民衆芸術」や「市民演劇」という視点の萌芽がある。

三つの試みに共通するのは、国家や個人という近代の二つの憑き物に対する徹底した異議申し立てである。イデオロギー装置としての国家に対しては、事ある毎に違和を感じるものの、個人という概念には疑念を感じたことがなかっただけに、「習慣的に協同する人間の集合」を基礎に据えた倫理という考え方には虚をつかれた思いがした。『舞姫』の太田豊太郎に近代的自我を発見したつもりで得々としていたのだが、娼妓を妻とし、世間の風評被害を受けながら最後まで添い遂げた逍遙の自己の倫理観に忠実な生き方の前では、いかにもそれが薄っぺらなもののように思えてくるのだった。

 2003/2/24 「歩き方は語る」 吉田秀和 朝日新聞夕刊「音楽展望」

最近の相撲取りの歩き方は昔とずいぶん変わっているらしい。「かつては両足を斜め外側に向けて股から膝、膝から足とがっしり重心のかかった動きでずしりずしりと地面に食い込むように歩いていたものだが、今見ている力士のは膝の曲がりも少なく、脚全体が一本の棒のようによく伸びて、すたすたとまっすぐに前に進む」。昔もそういう力士はいたが、今ではそれが主流であるという。

話はここで、歩き方というものの持つ根本的な意義に移る。吉田は言う。「歩き方というものは身体の外側の出来事(?)というのではなく、身体の奥で起こること、その深いところに存在しているものと結びついている。力士に限らず、日本人の歩き方は総じて欧米人とずいぶん違う。」欧米人のそれは、「平均して両足の運びが画一的で、速くなったり遅くなったりのブレがない。日本人のは散歩型とでもいうか、全体にゆったりして、その中で速くなったり遅くなったり、色々変化する。」

話はここから専門の音楽に移るが、話題はまだ、歩き方から逸脱しない。ニューヨークの有名なヴァイオリンの先生が日本の少女に公開レッスンをしたとき、歩き方ばかりを何度も直すことでレッスンを終わった話を引き、吉田はこういう。「歩き方自体の中にすでにこれから音楽をやろうとする人のこれまで育ててきた中核のようなものが見えてくるという事情があるのである」と。

アンリエット・ピュイグ=ロジェという人の《ある「完全な音楽家」の肖像》という本の中に、「日本人は踊りということをあまりしないので、南西ヨーロッパや南アメリカなどの動きの速い、跳躍の多い舞曲を持った土地の人間に比べて、リズムに弱い」という指摘があるそうだ。それを、複雑な事情を簡単に割り切りすぎだとしながらも、吉田はかつて見たベルリンフィルの公演を思い出す。

「楽員たちが左右から歩調を合わせるように一人ずつ整然と出てくる姿を見た。といっても軍隊の行進という気配とは違い、いつもやっている通りの自然な歩き方をしていると、そこに自然と一つのリズムが生まれてくるといった具合なのだ。」その後から、かのフルトヴェングラーが出てくるのだが、「やおら彼が棒を取り上げ、何かしたなと思った瞬間、ベートーヴェンの「第五」のあの始まりがいきなり鳴り出す。この間、皆の歩いていた姿からこの音になるまで、そこにはずっと一本の筋が通っていた。音楽は鳴る前からすでに彼らの体の中で躍動していた。音楽は音にならない音が、形をとったというだけのことだ。」

相撲の歩き方も変わってきたのだから音楽家も、と吉田は自嘲気味に話を終えるのだが、ここまで読んで、三浦雅士が『身体の零度』の中に書いていたことを思い出した。曰く「世界には二つ舞踊文化圏がある。舞の文化圏と踊りの文化圏だ。それはそのまま農耕民の文化圏と遊牧民の文化圏である。その文化圏においては舞踊のみならず、身体所作の体系そのものが違うのである。生産の様式が身体所作の様式を規定し、舞踊の様式を規定するからである。」と。

近代的な軍隊を作るため、明治政府は訓練によってそれまでのナンバ、摺り足の文化を駆逐しようと努めた。戦争には負けたが、戦後も我が国の教育界は西洋風の体育、音楽を一貫して指導し続けてきた。しかし、いかに国家が励んでみても、米を作り続けている限り、我々の体の中で躍動している「音にならない音」は西洋のそれではない別の音を形作っているのではないか。米食はパン食に変えることができても、今更遊牧民になれはしない。長きにわたって、日本の音楽界を見てきた吉田の言葉であるだけに、何ともいえぬ感慨が湧いてくるのを禁じ得なかった。

 2003/2/23 『ゼラニウム』 堀江敏幸 朝日新聞社

のっけから個人的な好みの話で申し訳ないが、派手な表紙の本が嫌いである。よく著名人が書棚を背にして写真を撮らせているが、目がちらちらするような書棚を背にして写真を撮らせる人の書いた物は、まず購う気にならない。背表紙に大きな字で書名が書かれているのも嫌だ。昔の本は函装の物が多かった所為か、装丁が落ち着いていたが、近頃は目に付けばいいだろうということか不自然なまでに仰々しい背表紙が多くなった。

改行が多くてやたら続く会話の下が空白になっているスカスカの本も嫌いである。詰めて書けばページ数が半分以下になり、単行本としては厚みが足りなくなるからわざとやってるんじゃないかと勘ぐりたくなる。得てしてそういった類の本は情景描写が少なく、カタカナが多い割に漢字が少ないとしたものだ。逆に、改行が適度で、漢字と仮名の使い方に作者の工夫があり、視覚的に美しく感じられる紙面を構成している本が好きだ。本は、内容じゃないかとお叱りを受けるかも知れないが、目にしたときに心地よい本はだいたいにおいて読んでも面白いから不思議である。

なぜこんな話をしたかといえば、堀江敏幸の本を読むたびに、ああこの人の書く物は好きだなあ、と感じてしまうからなのだが、いったいどこがそんなに気に入っているのだろうかと考えたとき、上のようなことに思い至った。おそらく著者の好みの反映だろうと思われるが、どちらかといえば地味な装丁で、書名、著者名ともあっさりと記されている。そっけない感じさえ受けるくらいだ。

中身の方はといえば、これも悪い意味でいうのではないが何を書いても同工異曲で、作者自身を想像してしまう主人公が出会う人や物についてのエセーのような小説のようなどちらともつかない宙ぶらりんな印象の残る短編が多い。舞台はフランスであることが多いが、アルバイトや下宿がらみの話題が多いのは留学生時代の作者の経験が下敷きになっているのだろう。

『ゼラニウム』は、表題作を含めて全部で六編の短編を収めている。池袋界隈を描いた一篇をのぞく五篇は、パリ以外にも足を伸ばしているものの舞台がフランスであることに変わりはない。いつもとちがうのは、この作者にしてはめずらしい、女性との出会いを描いたものばかりを蒐めていることだ。どの女性もみな魅力的にスケッチされている。とびきりの美女というわけではないが、その人の拠って立つ魅力のようなものをすくい取るのがうまい。全編とも外国人女性であるのは偶然かも知れないが、今の日本人女性を描いてこの魅力を感じさせるのは作者でなくとも無理ではないかと感じさせられる。

いつものことながら女性との出会いを描いたといっても恋愛感情は希薄で微かな仄めかしのようなものが感じられるだけである。「必要なときにだけ力になれるような、つかず離れずの関係」を好み「他者とそういうつきあい方しかできない人種である」ことを自認する主人公にどろどろした恋愛を求めるのは筋違いというものだろう。そういう関係を好ましいと感じ、一刹那の接近の中に封じ込められた萌芽としてのみ残る恋愛の可能性の、それだけに無垢な美しさのようなものに、冬の午後の驟雨の後、割れた雲の間に一瞬輝く日の光のような切なさを覚える。

問題は友情でもなく、恋愛でもない、かといってその中間というのでもない、男性、女性に関わりなく人間同士の関係をどういう点で取り結ぶのかということだ。絆が固過ぎれば、引きずられてしまうだろう。かといって、誰とも関係を持たなければ人生は味気ないものになる。相手も自分も互いに必要なときにだけ力になれるそんな関係は果たして実在するのか。作者が好んでフランスの町を舞台にするのは、そういう堅い個と個が向き合える場を求めてのことではないのだろうか。

 2003/2/16 『ロンド』 柄澤 齊 東京創元社

読みすすむうちにこれが初の小説作品だという事実が信じられなくなってきた。専門である木口木版画の作品からも、既存の美術作品を自家薬籠中のものとする才能は伺われるが、それは美術家としてのもの。抑制を効かせながらも視覚や聴覚に訴える比喩を駆使した硬質な文体で、ずしりと持ち重りのする長編推理小説を最後まで読ませる筆力に対しては、帯の惹句に『虚無への供物』『薔薇の名前』という名作を引き合いに出すのもあながち不遜とはいえないものがある。

「絶対音感」というものがあるが、作者によれば「絶対視覚」というものまた存在するらしい。「どんなに複雑な形でも測ったように紙の上に描写できるし、どんなに曖昧な色でも再現できる能力」それが絶対視覚である。しかし、あまりに精度の高い目を持ち、それを表現できることは客観的になり過ぎ対象に向かって愛情が感じられなくなる。「そういう人間が自分の力を鼓舞するためには愛情に代わる執念を燃やすカンフル剤がいる」。愛(エロス)でなければ死(タナトス)の出番だろう。

『薔薇の名前』ならアリストテレスが書いたと言われながら行方の分からない「喜劇論」が話を引っ張っていく原動力となる謎、ヒッチコックのいう「マクガフィン」である。本作品では魔術的リアリズムで死の相貌をとらえる天才画家三ッ桐威が描いた『ロンド』がそれにあたる。古い祭壇画に用いられた様式である三連式のパネルに描かれた「夜の暗い森の中で、輪になって踊る人々を描写した絵画」は踊りの中に描かれた多くの人物を通して、「古い鏡のように自らの記憶を発見する、集合的な死の肖像」と評されるが、限られた少数の人間しか見ることを許されず、その在処が杳として知れぬ幻の名作である。

その幻が不意に現れようとしたとき事件が起きる。最初の殺人現場の描写を読んでいるうちに、ああ、これはダヴィッドの『マラーの死』だな、と想像がついた。所謂「見立て殺人」。推理小説ではよく使われる手法でヴァン・ダインが使った『マザー・グース』をはじめ古今東西の推理小説を飾り立てるための道具立てとしては少々手垢がつきすぎている憾みなしとしない。しかし、わざわざ殺した相手を名画そっくりに飾り立てて展示し、しかも後にそれを自らの手で描き、作品として発表する犯人は己の技術に絶対の自信を持っている。それは、かつて名声を恣にしながら若くして逝ったカリスマ的画家三ッ桐威の後を襲う芸術家としての自負に支えられた殺人である。

エラリー・クィーンの国名シリーズには「読者への挑戦状」という趣向があったが、ことは推理小説に限らない。表現を志す者には自分の表現する物が凡百のつまらぬ観客の理解を凌駕するものでありたいという欲求と同時に、極々少数の者でいいから完全に理解されたいという欲望もまた存する。「逸脱と放縦を綯い合わせて縄を作り、世間という名の谷に渡した上できわどい芸をやる。右に落ちれば表現者、左に落ちれば犯罪者だ」と作中の老版画家は語る。多くの探偵小説にいやというほど繰り返し登場するメッセージを残す殺人者は、芸術家の戯画である。批評家に認められることで作品は芸術となる。探偵と犯人はウロボロスの蛇の如く永遠に互いの尾を咬み合う存在である。

現役の版画家でもある作者だが、描くばかりでなく描かれたものを表現する能力にも長けているらしい。主人公である美術館のキュレーター津牧の筆によるカラヴァッジョをはじめとする美術批評は秀逸である。作中に頻出する美術評を小煩く思うか、面白いと感じるかは読者によってちがうだろう。とまれ、ラテン語まで持ち出してアナグラムを操ってみたり、音楽や料理にも蘊蓄を傾けてみせたりするあたり、衒学趣味(ペダントリイ)の系譜を引いているのは間違いないところだ。

『九相詩絵巻』からは夢野久作の『ドグラ・マグラ』を、カラヴァッジョの『ホロフェルネスの斬首』からは女装した美少年がサロメになって踊る塔晶夫の『虚無への供物』を連想させられた。昔の武蔵野の面影を残す丘陵地帯に立つ「巨大な波に押されて海原を航海する船」に擬せられた美術館は小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や『薔薇の名前』の舞台になった山の上の僧院を思い出させる。酸鼻を極める屍体を載せ、暗黒の大海の中に今また新たな船が出帆した。

 2003/2/9 『トーク・トーク』 E・L・カニグズバーグ 清水真砂子訳 岩波書店

カニグズバーグは児童文学者。代表作の一つ『クローディアの秘密』は岩波少年文庫にも収められている現代児童文学の傑作である。児童文学と聞くと、何だ子ども向けかと思う向きもあるかも知れないが、それはとんだ心得ちがい。近頃の児童文学の中には、大人が読んでも面白い作品は少なくない。カニグズバーグの作品もその一つ。そのカニグズバーグ女史の講演は、アメリカの出版事情や世相をやんわりと批判しながら様々な資料を渉猟しつつ自作の由来について語るといった体のものだが、実に興味深い読み物となっている。

時代順に納められた九つの「講演と講演の間には講演とそれが話された時代を、あるいは講演と講演をつなぐ文章」が入っている。この講演とそれをつなぐ文章の配置が実に上手く、一つの講演が終わると次の講演が聴きたくなる。そんなこんなで一気に読み終わってしまった。どれも面白いのだが、その中でも、なぜ子どもの本を書くのかということについて触れた1970年代の講演「“わが家”に帰る」を紹介したい。

「私は書くときはいつも、“わが家”へ、原点を示している子ども時代に、帰っていこうと努めています。それは私が子どもの本の作家だからというだけでなく、人の子ども時代には、嘘偽りのない真摯な何かがあるからです。嘘偽りがないこと、真摯であることは何を書くときにもまずスタートにおくべきものでしょう。」

しかし、中年になると“わが家”に帰る邪魔をするものが増える。あごに髭が生えてきた今、子ども時代の漠とした不安に具体的な言葉を与えられるのかという疑問。他にもある。かさぶたを引っぺがして既に過去となった傷を見ることへのおそれ。あるいは、自分の過去に本当に書くべき価値があるのかという問い。畢竟作家にとってのわが家に帰るとは「自身をめぐる真実、毛のない、むきだしのおそろしい真実が存在するところ」について語ることだとカニグズバーグは言う。

作家にとってばかりでなく読者にとって“わが家”に帰る道もある。「この本、この章、この人物、ああ、みんなよくわかる、ほんとによくわかるわ」と言える本を持つことである。若い頃の著者にとってサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』がそうであった。その前には『若草物語』が。しかし、その前にはない。「私は子どもの時、これぞわが家と感じ、このヒロインは自分だと思える本に出会えませんでした。」そういう本に出会いたいと思いながら出会えなかったことが、著者をして「子どもたちが自分たちのことを書いた本」だと思えるような本を書かせているのである。

講演集を読み終わった読者はすぐに未読の著作を買い求めに本屋に走りたくなるかもしれない。因みにカニグズバーグ作品集は岩波書店から出ているが、著者の語るアメリカでも日本でも出版事情は変わらない。子どもの本も、今ではビジネスであるのは『ハリー・ポッター』の売り方を見ても分かる。ブームのおかげで、二匹目の泥鰌をねらったファンタジー物は次々と出版されているが、思春期の子どもの行動や心理をリアルに追いながら読み物として面白いというカニグズバーグの書くような物は、訳者でもある批評家の清水真砂子や同じ児童文学作家である上野瞭、今江祥智など所謂玄人受けはしても、本屋の棚にいつもある本ではない。図書館の児童文学コーナー辺りには揃っているかも知れない。是非探してみることをお勧めする。

 2003/2/1 『セールスマンの死』 アーサー・ミラー 無名塾

幕が上がったままの舞台には、台所と寝室、それに二階の子供部屋が見えている。僅かな明かりが煉瓦作りのアパートの裏通りに面した鉄製の外階段を照らしている。舞台はニューヨーク州ブルックリン。台所に置かれた旧式の冷蔵庫から大凡の時代が分かろうというもの。舞台上手にあがったスモークの陰から黒っぽい中折れを目深にかぶり大きなトランクを両手に提げた男が登場する。仲代達矢演ずるウィリー・ローマン。主役の登場である。

男は、かつては名うてのセールスマン。地方を回っては常連の顧客を相手にかなりの収益を上げていたが、寄る年波には勝てず、今では歩合制で雇われる身。しかもお得意さんの多くは代替わりして、彼から買う客はいない。事実を妻に知られたくない男は、友人から月50ドルずつ借りては給料と偽って妻に渡している。それを知ってか知らずか、妻はこの頃様子のおかしい夫を気遣っている。どうやら自殺を考えているらしいのだ。

男は、家柄に関係なく誰にも成功するチャンスはあるというアメリカン・ドリームを信じてきた。自分だけでなく、高校フットボールの花形選手として将来を嘱望されていた長男にもそれを期待し溺愛してきた。ところが、男は60を過ぎても一介のセールスマンで、家のローンに汲々としている有様。息子は、単位を落として卒業できず、誘いのかかっていた大学を棒に振り、今では定職も持たず家にはたまにしか寄りつかない。息子の挫折の原因は父親が母を裏切る現場を目撃したことらしいが、家では口を噤んでいる。顔を合わせば口論になる父と子を母親は理解できない。

確かに新大陸アメリカでは成功するチャンスは誰にも公平に与えられている。一介のセールスマンから名を成した人物も枚挙にいとまがない。しかし、それは無数ともいえる人間の中の一握りでしかない。僅かな勝者と莫大な敗者が同居しているのがアメリカであり、資本主義国家の真実の姿なのだ。アーサー・ミラーは急成長を遂げるアメリカの薔薇色の「夢」の裏側を容赦なく剔り取って見せた。命と引き替えに大金を得ようとする男の愚かしさを笑える者は少なかろう。

初演当時、日本の観客は舞台上の電気冷蔵庫を見て「さすがにアメリカのセールスマンは金持ちだ」と感想を洩らしたという。アメリカン・ウェイ・オブ・ライフなどは夢のまた夢の世界であった。その日本もジャパン・アズ・ナンバー・ワンなどとはしゃぎ、もうアメリカから学ぶ物はなくなったと豪語した挙げ句のバブル崩壊である。企業の倒産、リストラという名の大量馘首に怯える日本のサラリーマン層は、夢から覚め自分の本当の姿におろおろするしかないウィリーに、やっと等身大の自分を投影できるようになったのかも知れない。

主演の仲代達矢は、ふだんの颯爽とした役柄とはうってかわった非英雄的人物を演じ、「口角泡を飛ばす」文字通りの熱演。男性的な野太い声を駆使した独特のエロキューションと一目千両という形容がぴったりの大きな瞳は、時には中空を凝視し時には不安げに彷徨い、夢を追いやがて破れ去る主人公の揺れ動く感情を雄弁に物語る。それに引きずられるように無名塾の若手も力演で応じ、久しぶりに熱の入った演劇を見たという気がした。最前列で見たい芝居である。
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