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 2003/9/29 彼岸花

路傍の彼岸花が無残に踏み折られていた。いずれはいたずら坊主たちの仕業だろうが、「暑さ寒さも彼岸まで」という昔からの言い伝えといい、曼珠沙華の花といい、地球の温暖化などというマスコミのコピーを笑うかのように、昔と変わらぬ季節の変わり目を告げてくれる。と、ここまで書いて、「彼岸」は新暦、旧暦に関係ないことにあらためて気がついた。昼と夜の長さがそこを境目にどちらかに傾く春秋の一日を彼岸の中日というのだから、はじめから太陽をもとにしているのだった。小津の映画にも『彼岸花』というのがあった。小津の映画には季節を表す題名が多い。『晩春』、『麦秋』、『早春』、『秋日和』、『小早川家の秋』と、思いつくままに挙げてもこれだけある。どの作品も家族とその別れが描かれる。それは死であったり娘の結婚であったりするが、題名は直接に映画に描かれた場面の季節ではなく、人生の季節を暗喩しているそうだ。「彼岸花」というのは、人生の峠を下りはじめたあたりを指しているのだろうか。因みに、どうして彼岸花かといえば、画面に登場するアマリリスからつけられた題名らしい。アマリリスが彼岸花ねえ。はて…。

 2003/9/25 襲名

彼岸の中日に、歌舞伎を見に行ったのだが、休日ということもあり、会場は着物を着た人もちらほら見えて、歌舞伎見物は、他の観劇や舞台鑑賞とはまたひとつちがった独特の雰囲気を持つものだな、とあらためて感じた。辰之助の四代目尾上松緑襲名披露と銘打っての興行で、演目は黙阿弥作「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」と「棒縛り」。河内山は団十郎が演じ、四代目松緑は、「棒縛り」の次郎冠者を踊った。団十郎は口跡の悪いのが難点だが、河内山のような悪党を演じると、かえってその口跡の悪さが生きるようだ。ふてぶてしさの漂う捨てぜりふが小気味よく感じられた。松緑といえば、当代の祖父にあたる二代目がつい思い出される。当代の父十一世団十郎と今の幸四郎の父、松本白鴎の三人兄弟の末弟にあたるが、大柄な役者で、弁慶をやるかと思うと、高麗屋系統ならではの赤毛芝居に挑み、オセロの悲劇を演じてみせたり、音羽屋の芸風を継いで世話物狂言で粋な江戸っ子を演じたりと、実に上手い役者だった。孫の四代目には、まだまだ松緑の名が重かろうが、この世界では名を継ぐことで、その芸風が身につくこともある。精一杯精進してもらいたいものだ。

 2003/9/22 喫茶店

以前に店の前まで行きながら、帰ってきた喫茶店があった。最近、この近県にあいついで開店しているチェーン店である。喫茶店のチェーン店というのも変な話だが、いわゆるフランチャイズ化で展開しているのだろう。何がそんなによくって人が入るのか、流行りに疎いのでさっぱり分からない。一度は散歩の途中に立ち寄ってみたのだが、あいにくの満席で帰ってきた。今回は、職場の同僚との飲み会の後、車で送ってもらう途中で立ち寄った。午後十時を回っているというのに、店はけっこう混んでいた。席についてメニューを見て、少し分かった。ケーキの種類が多く、その量も半端ではない。喫茶店というと、コーヒー一杯の値で時間を買うような使い方をしている人種には想像のつかない至極真っ当な飲食店だった。「珈琲店」という看板を出していることもあって、京都イノダ風の時代がかったカップに入れて供された珈琲は、まあ美味しいと言ってもいい味だった。同僚の注文したシフォンケーキもそれなりの味で、どう考えても行列のできる味ではない。ケーキの大きさくらいしか印象には残らないのだが、それが人気の理由だろうか。明るく広い店内といいファミリーレストランの喫茶部という感じだ。喫茶店に隠れ家風の趣を期待する方が時代錯誤なのだろう。散歩の途次に立ち寄る店ではなかったようだ。

 2003/9/21 ブラッディ・マーダー

台風が南海上を東進しているとかで、終日雨。ここ数日来、夜半に一章ずつ読み進めてきたジュリアン・シモンズの『ブラッディ・マーダー』を一気に読み終えた。強い風まじりの雨の音のおかげで、隣家のTVの音も聞こえてこない、読書にはもってこいの日である。「探偵小説から犯罪小説への歴史」という副題どおり、ポオ、ガボリオから現代の犯罪小説に至る数多の作品の中から著者の眼鏡に適うかどうかを唯一の基準にして選ばれた作家と作品について、簡潔にまとめたものである。チャンドラーよりハメットを上位に置くのは仕方ないとしても、後期クィーンやアイリッシュに対する冷遇は首を傾げたくなる。好みのちがいといえばそれまでだが、自分の認めない作家や作品には、いくら有名な作家であっても冷遇を貫く半面、探偵小説とは言えないスパイ小説に一章を割いたり、ボルヘスの作品やエーコの『薔薇の名前』についてかなりの紙数を費やしたりするなど、かなり気ままな編集方針である。歯に衣着せぬ物言いは、筆者の本気を感じさせ、本を選ぶ時には判断材料になるかもしれない。

 2003/9/19 永劫回帰

毎朝六時に目を覚ますと、昨日と同じ日がはじまる。出会う人もその行動も全く同じ。ちがうのは自分と関わる相手の対応だけ。男は他人に関心を持たないエゴイスト、でも好きな女性がいる。毎日少しずつ積み重なる記憶で彼女の好みも分かり、いいところまでいくが、彼女は落ちない。自暴自棄になった男は自殺を試みるが、何度やっても毎朝六時になると昨日と同じベッドで目を覚ます。ビル・マーレイ主演の『恋はデジャブ』という映画を見て、一生を一日に短縮しているが、これはニーチェの永劫回帰の思想なのだと気がついた。ニーチェが言いたいのは、どうせ一生を過ごすのなら、永遠に繰り返したくなるような人生を歩めということだ。たしかに何度死んでも生き返るなら、破壊や殺人を繰り返すことも可能だが、殺した相手もまた生き返るのだ。いつかはその虚しさに気づく。同じことなら、自分を高め、他人のために尽くし、人を愛し、人に愛される人生を選ぼうとするだろう。どうせ一度きりの人生だと思うから、自己を高める努力を放棄し、隣人を愛することをむなしいと思ってしまっているのではないだろうか。永劫回帰して同じ人生を生きるものだと考えて毎日を生きることができたら、きっと人生はまるっきり変わったものになるのだろう。

 2003/9/18 夕暮れの時はよい時

畦道を歩くと、黄色く色づいた蚊帳吊り草の群落の間から抜け出した狗尾草の穂が折からの風に揺れていた。日の暮れるのがはやくなった。秋の日は釣瓶落としというが、薄曇りの空にくっきりとした輪郭を見せてモネの描いたような日が沈んでゆく。ふだんは目障りな電線が思いなしか詩情を漂わせて空にかかっている。何があるわけでもないが、秋の夕暮れは、昔も今もふしぎに物思わしげである。瞬く間に暮れてゆく空の下、ぽつりぽつりと灯がともりだした。するべき仕事がないでもないが、明日という日もある。時間に追われるのでなく、いい時間を追っていたい。堀口大学の詩にも「夕暮れの時はよい時」というルフランがあった。どこに行って何をしようというのでもない。ただ、一日のうちのほんのひととき、自分と世界の間に隔たりのない共感に満ちた時間が持てれば、生きるということも悪いものではないという気がする。

 2003/9/16 安全保障

たてつづけに近くの家に空き巣ねらいが入った。窓に小さな穴をあけ、そこから侵入しているというのだから、これはプロの仕業だ。近くの居酒屋の夫婦は、店から少し離れたところに家があるが、二人で二時間ほど家をあけたすきに、箪笥の抽斗が荒らされ現金が盗まれていたという。となると、二人の外出を物陰から見ていて、それからおもむろに家に入ったと考えるのが自然だろう。泥棒が近所を徘徊しているわけだ。少し前から、近辺で盗難にあった話は聞こえてきていたが、いざ近くまでやってくると、話が現実味を帯びる。そういえば、以前はバス停の近くにあった駐在所がなくなって今は空き地になっている。勤務が交代するたびに顔を出しては、挨拶がてらに世間話をしていったものだが。どうしてなくなったのだろうと今まで考えたこともなかった。ふだんはあまり考えたりしないくせに、こんなときには駐在所のなくなったわけが知りたくなるから勝手なものだ。こういうのを抑止力というのだろうか。自分は何もしないで安全がほしいとき、人は外部の力を頼るようになる。みょうなところで安全保障について考えてしまった。

 2003/9/15 夏毛

朝夕がめっきりすずしくなった。ニケに起こされて階段を下りると、開け放した窓から冷気がすべり落ちてくる。日本海側はフェーン現象のせいで、例年にない暑さだそうだが、太平洋側は、やっと秋が来たようだ。おかしな気候が続く。ニケを撫でていると、顔からフリルまではすっかりシルク状の手触りなのに、背から尻尾にかけてはまだ夏毛が残っているようだ。ざらついた毛の感触に夏の名残が感じられる。季節の変わり目が不自然なので、毛替わりもそれに対応しているのだろうか。窓の外には虫の音が聞こえる。ちょっと前までは日が落ちてもミンミン蝉が鳴いていたものだが。さすがに日中は気温が上がっても、湿度の方はあまり上がらない。「風の音にぞ」と古の歌人も詠んでいるが、秋の来るのを知るのは、目よりも大気の状態の方が先らしい。

 2003/9/13 ヴィレッジ・ヴァンガード

評判のヴィレッジ・ヴァンガードが、開店したばかりのショッピング・モールに入ったというので出かけてみた。一応書店らしいのだが、アメリカンテイストの雑貨や、キッチュな商品が関連する本と肩を並べて置かれているのに、はじめはとまどった。しかし、店内を一回りして分かった。ここに並んでいる本は、いわゆる本でありながら、他の雑貨類と同じく趣味的な商品として選ばれている物ばかりなのだ。澁澤龍彦が文庫ながら、ほぼ全巻が並んでいたりするのがそのいい例だ。隣の棚には夢野久作。コミックの棚には岡崎京子という具合である。なんだか、誰かのアパ−トか下宿の部屋に紛れ込んだような気がする。おそらくターゲットは若者なのだろうが、こちらが成長していないのか、それとも年齢層で区切ることを想定されていないのか、自分の部屋にあってもおかしくない本やガジェットがそこここに転がっている。大学に入ったばかりの頃だったら、通い詰めたかもしれないが、興味や関心の強度が弱まったのだろう、あまり購買意欲をそそられない。もっと早くこういう店がほしかった、と思ったことであった。

 2003/9/12 地には平和を

稲刈りの終わった田圃で真っ赤な耕耘機が動いている。乗用車には白や灰という目立たない色を選ぶ人たちが、どうしてこんな派手な色を選ぶのだろうとよく思うのだが、季節によって、緑になったり黄金色であったりしてもおよそひとつの色が見わたすかぎり続く水田の中にあって、農機具の赤は、今では日本の農村風景に欠かせない彩りになっている。ところで、落ち穂の目立つ稲刈り後の田圃に入った耕耘機が田を鋤いているそのまわりに白い鳥が何羽もつきしたがっている。まるで雛鳥が親鳥の後を追うように大きな鷺が耕耘機のゆっくりした動きにつれて田を移動しているのは、何とも珍妙な風景だ。卵から孵った雛鳥がはじめて目の前で動く物を親鳥だと思う習性を「刷りこみ」というが、あちこちの田圃で耕耘機を囲む白鷺すべてが「刷りこみ」によって耕耘機を親鳥だと思っているわけではあるまい。きっと、掘り起こされた土の中から出てきた虫を食べようとしているのだろう。あれだけ前や後ろを囲まれては農作業の邪魔だと思うが、耕耘機はあわてず騒がずすすんでいく。何ともいえず平和な光景である。

 2003/9/10 雲

台風の影響だろうか、昨日今日と雲の様が異様に美しい。昨日は海の上に入道雲が夏の名残りのように湧いていた。今日は今日で、山の端近く、空色としかいいようのない色をした空を背景に雲が低く垂れ込め、中空のちぎれ雲の上に広がる青い空まで、図鑑で引きたくなるほど多様な雲が広がっていた。ただ、その前方を近くの基地から飛び立ったヘリが三機、黒煙を噴き出しながら飛んでいるのが、いかにも近頃のただならぬ世相を反映しているようで、何をのんびり自然観照しているのだ、と冷や水を浴びせかけられたような気になった。イラク情勢は相変わらず緊迫している。自衛隊の派遣は今年中はないだろうが、総裁選の立候補者の顔ぶれを見ていても、情勢がよい方向に転換するだろうという見込みはまずない。非戦論者にかつての影響力はなく、政治生命まで危うくなっている。野中氏の政治手法が古くさいと言われるが、パフォーマンスばかり鮮やかで、内実に乏しい首相の手法はそんなにいいだろうか。きな臭さの漂う雲行きではある。

 2003/9/9  自分の意見  

何か意見を求められたとき、自分の考えをはっきりさせることに躊躇するようになっている自分に気がついた。以前は、自分の意見が人の考えを動かしたり、決定を左右したりすることに幾ばくかの楽しさを覚えているようなところがあった。自己満足にはちがいないが、自分以外の物言わぬ声を代表しているような思いがあったこともたしかだ。しかし、言っていることは自分の頭や心から直截に出てきたのではなく、いろいろな考えの中から正しいと思った意見を口にしていたような気がする。案外、自分で最後まで考えたことなどないのだ。その時その時、自分で突きつめることをしていたなら、そんなに簡単に意見など言えるはずもない。いとも簡単に断言する人を見るたびに「そんなものかな」と疑問を感じるようになった。あまり愉快な体験とは言い難いが、年をとることで自分の貧しさや至らなさに気づくようになったこともあるのだろう。

 2003/9/8 マーケット

仕事の帰り、ひさしぶりに駅前を歩いた。日本中そうらしいが、シャッターを閉めた店がふえた。そうでなければ、さら地になって猫じゃらしが生えている。大きなビルが壊された後には決まってコンビニができ、広い駐車場ばかりが目立つようになった。なんだか風通しがよすぎる気配だ。ところが、私鉄の駅前にある古いマーケットの中に入っておどろいた。アーケードにつるした色セロファンの短冊飾りのしたに、昔とちっとも変わらない店が残っているではないか。そっくりそのままというわけにはいかない。歯抜けになったり、代替わりをした店もある。それでも、ひとたび中に入れば、十年や二十年の月日など何でもないと感じさせる店構えだ。つぶれていないところを見ると客が来ているのだろう。入り口の並倉の黒い板壁には琺瑯引きの看板が何枚も掛かってアーケードに覆われたマーケット全体がノスタルジックな空間と化している。悪くない雰囲気だ。界隈一帯をまるごと街並み保存すると面白いかもしれない。

 2003/9/7 誤訳

古い友人から久しぶりに電話。京都時代の互いの知人に久しぶりにばったり出会ったとか。せっかくの機会を逃すと今度またいつ会えるか分からない。近くの焼鳥屋に出てこないかという誘いだった。話がはずみ、一杯のつもりがついつい杯(ジョッキ)を重ねて、めずらしく酔ってしまった。朝になってもまだ酔いが残っているようで、難しい本は敬遠。ブックエンドから『海外ミステリ誤訳の事情』を取り出して読みはじめた。海外ミステリなんかほとんど読まないのに、なぜかミステリの評論が気になる。植草甚一の本にはまって以来だと思う。で、「誤訳の事情」の話。二日酔いの頭にもこれは面白かった。有名な翻訳家でも結構あるものらしい。それにしてもよくこれだけ収集したものだと感心した。barも大文字のBARになると、Browning Automatic Rifleの略になるなんて、英語に詳しくったって知らない人の方が多いだろう。映画にも詳しいがこの人みょうに銃器に詳しい。海外暮らしが長くなると、そんなものなのだろうか。海外ミステリファンでなくても楽しめる一冊。

 2003/9/6 シャンプー

急に思いついてニケを洗った。トルコのヴァン湖で泳いでいたところを発見された猫もいるが、犬とはちがい猫は水が苦手である。ましてやニケは長毛種、一度濡れた毛を乾かすのに時間がかかる。それでしばらく洗ってなかったのだが、この頃どことなく黄色っぽくなってきていた。妻が風呂場でニケを洗い、私がバスタオルをもって受けとる手はずである。曇りガラスの向こうで案の定ニケは逃げようとしてガラスに体を押しつけている。やっと戸が開いて濡れ鼠(というのも変だが)状態のニケが妻に抱かれて顔を出した。近頃ふとってきたと思っていたが、濡れて毛が体にはりついてしまうとそれほどでもない。膝の上にのせ、バスタオルで毛を乾かす。濡れて小さくなった顔をタオルの中につっこんでおとなしくしていると家に来た夜のことを思い出す。あの夜もこうして膝に抱かれて体を拭かせていた。その頼り切った様子にほだされてしまったのだった。あらかた乾くと、後は自然に乾くのを待つ。ドライヤーが嫌いなのだ。すっかり乾いたら、シルクのような色つやと毛触りが戻った。これで、「きれいな猫ねえ」と言われても胸がはれるというものだ。

 2003/9/5 氷菓

汗をかいて帰ってきたら、誰かがカップ入りのアイスを買ってきてくれてあった。よく見ると、クリームではなくシャーベット。オレンジの方を選んで一匙口に運ぶ。天然果汁が入っているのかオレンジ特有の苦みがある。カップが大きく、食べきれるか心配したが、何のことはない。きれいに平らげてしまった。流した汗の分はちゃんと入るようになっているものらしい。小さい頃、夏の楽しみは自転車の荷台に水色の木箱を載せ、旗を立てて売りに来るアイスキャンデーだった。銀紙で包まれた店売りの名糖ホームランバーは、高級感があったが、包み紙がなく、箱から取り出すとき冷気が立ち上るオレンジ色のキャンデーの方が好きだった。ちゅうちゅうと吸っていると、色も味もぬけ、ただの氷になってしまう安直なつくりが、遊び心を満足させてくれてもいた。食べ終わると、舌にキャンデーの色が移り、粗悪なものを食べた証拠が残るのだった。氷菓を食べると決まって、蝉の音しか聞こえない真夏の昼下がりの情景がよみがえってくる。

 2003/9/3 温故知新

グレゴリー・ハインズが死んだ。萩原健太がFM番組の中で、あれだけのタップダンサーはもう出ないのでは、と言ったあとで「でも、陸上を見てると、記録は次々と破られてますからね」と続けた。たしかに。人間の進歩などという言葉は信じられなくても、新しい記録が作られてゆくのを見てると、人間の可能性というものはつきることがないような気もしてくるから不思議だ。100メートルの十秒の壁のように、もうこれ以上は無理だろうと考えていた壁が、何年かするとあっさりと破られてしまうのだから、運動用具のテクノロジーの進歩だけでなく、身体能力的にもまだまだ開発の余地があるのだろう。今、話題の末次の独特の走法は古武術に学んだ「ナンバ」の応用だと聞いた。最新技術と古武術の出会い。なんだか楽しくなる話である。

 2003/9/1 男と女

男と女がバーで話し合っている。今日離婚が成立したところだ。
「こんなこと言える立場じゃないけど」と男が言った。TVを見ていた妻が、その後に続けて
「幸せになってほしい」とつぶやいた。TVの中の男は同じ言葉を口に出した。
「こんなの近頃多いわね。別れそうな二人に見えないのに」と、妻。
「きっと別れるまでに色々あったんだよ」と、私。
「そうね。時間がかかるのよね。」と、言い捨てて妻は台所に立った。

別れようと思い切るまでには、相手に対する愛憎があるから、相手の言い分に同意しようという気にならない。円満に離婚が成立するのは、相手を許しているか、自分の執着が消えたかのどちらかだ。愛しているからこそ相手が許せない。自分の非は認めても執着があって別れがたい。我執から自由になっても人を愛することは可能だが、人は自分よりすぐれた人物を、無意識の裡では憎んでいるから、次元の高すぎる愛には視聴者がついてこない。よく似たドラマが多くなるには、それなりの理由があるのだ。
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