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 2003/5/31 発条

特に仕事に力を入れているわけでもないのに、休日になると発条がゆるんでしまったように、緊張感がほどけてしまう。主のいなくなった空のベッドの上で終日眠っている猫の傍に寝転がって、夏毛に変わってきて、少しごわごわした手触りを楽しみながら、もう何度も繰り返して読んだバスケットマンガをはじめの巻から読み返していたりする。この部屋の主がいたころには、そんなことをしていようものなら、追い立てを食らったものだが、今では、誰も何も言うはずもない。台風のおかげで、隣家の雨戸は閉じられたまま。ふだんなら聞こえてくるTVの音がないだけで、こんなにも静かなのだ。知らぬ間にうとうとと眠ってしまっていた。今から、こんなことでは、退職後の生活はいったいどんなことになっていることやら。

 2003/5/27 舗石道 

雨も悪くはないが、毎日ぐずついた天気ばかりでは腐ってしまう。午後から急に日が差したかと思うと、すっかり晴れ上がり、とたんに夏空になった。ここ二、三日涼しかったせいか、会議室にはまだ冷房が入っておらず、会議の途中で休憩をとり、窓を開けた。涼しい風が流れ込んできて、眠気は覚めたが、会議自体は退屈なものだ。人の集まりの中に顔を出すことも、人の話を聞くことも年々億劫になってきている。窓の外の夏めいてきた風景を、レジュメの裏面にスケッチしたりしているうちに会議は終わった。駐車場まで続く道は煉瓦に似せた舗石道である。目地にあたる部分のあちこちから雑草が伸びていた。放っておけば、根を張った雑草が石を持ち上げて早晩舗石道は凸凹になってしまうにちがいない。ヨーロッパに憧れるのもいいが、もともと風土がちがう。植生の異なる風土にあって、ヨーロッパ風の景観を維持しようと思えば特別な手入れがいる。手間をかける気がないなら、この湿潤な風土にあった景観を考えるべきだろう。古くからある寺社の参道など、ヒントはどこにでもころがっている。

 2003/5/25 廃品回収

堤防沿いの空き地には、すでに大きなトラックやパッカー車、コンテナ車などが数台並んでいた。地域を回って古新聞や古雑誌、アルミ缶などを乗せた軽トラが、ここに集まってくる。それを、コンテナ車に積み替えるのが、今日の仕事だ。せっかくの休日だが、これも世の中のしがらみ、知らん顔もできない。年に一度の廃品回収のために、納屋や倉庫の隅にこつこつと溜めておいた新聞や雑誌の数は半端ではない。軽トラの上には、新聞も雑誌もアルミ缶も雑多に積み上げられてくる。それを、それぞれ別のトラックに積み分ける。新聞、段ボールにはおもしろみがないから、雑誌を専門に扱うことにしたが、マンガや週刊誌ばかりで、特にこれといった収穫はなかった。コンテナの上から投げ込むのだが、嫌々やっている仕事でも、何時間かしているうちに、それなりの楽しみを見つけるのが人間の不思議なところだ。中で作業をしている人に当てないように、いつのまにかバスケットのシュートの要領で調子に乗ってぽんぽんと放り込んでいた。明日は、肩が痛くて、手が上がらなくなるのではないだろうか。

 2003/5/23 野草

散歩にはいい季節だ。仕事場の近くの田圃に出てみる。畦道はいつの間にと思うほどすっかり草が刈られ、さっぱりとしている。その中に、シロツメクサやアカツメクサ、ニワゼキショウ、オオイヌノフグリなどの草が可憐な花を見せている。誰も気にとめないような小さな花だが、その色が緑の中にあるのとないのとでは、まるでちがう。小屋のある山里でも、すっかり草刈り機で刈られた畦にササユリだけは、慎重に残されていることがある。畑仕事をする人の心の中にあるゆかしさに心がなごむのだが、人里の畦道では、おそらくそんな配慮はあるまい。刈られてなおまた花を咲かせる強さを持つ野草だけが花を咲かせているのだろう。憧憬を禁じ得ない。

 2003/5/20 本の旅 

夕刊におもしろい記事があった。「『これは見捨てられた本ではなく、新しい読者を探している本です』という文面と番組の連絡先を書き込み、好きな本を好きな場所に置いておくだけ。見つけた人はメールなどで、番組に連絡し、読んだ後で次の見知らぬ読者に『本をパス(パッサリーブロ)』する。」イタリアのラジオ番組が始めた企画だそうだ。インターネット上の地図に、本の旅が記される。もともとは、「ブック・クロッシング」という英語圏の運動がきっかけらしい。本好きの悩みは、蔵書の置き所である。以前は読まなくても欲しい本は買い求めたものだが、やはり置き場の問題で、最近では、できるかぎり買わないように努めている。一つは所有欲が薄れてきたこともある。前のようには欲しいと思わなくなった。それでも、自分の好きな本を瓶詰めの手紙のように大海に漂流させる気にはなかなかなれない。公園のベンチにそっと置かれた本という図を想像すると、ちょっといいかな、などと思うけど、雨の多い日本ではどうだろうか。

 2003/5/16 外気  

カーエアコンの調子がよくない。はじめは冷えるのだが、長くつけていると、そのうち全然効かなくなってくる。診てもらったのだが、ガスが抜けているわけではなく、はっきりしない。車を預けて診てもらうといいのだが、それでは仕事にならない。どうしようもなくなるまでは、窓を開けて走ることにした。幸い、今のところ花粉の方も治まっているようで、髪がぼさぼさになるのさえ気にしなければ、センターピラーはあるもののいわゆるハードトップ、フルオープンで走るのは気持ちがいい。窓を開けて走っていると、音や風が運転席を直撃する。スピード感もぐっと高まり、なんだか楽しくなってくる。調子に乗ってアクセルを踏みたくなるのをがまんしながら走った。梅雨入りまでのわずかな間だけの楽しみかもしれない。

 2003/5/14 大学ノート

確かめたいことがあって、学生時代のノートを引っぱりだしてきた。いわゆる大学ノートである。今もうまくはないが、それよりもっと稚拙な字が、隙間なくびっしり埋まっていた。あの頃使っていたのは中国製の万年筆で「翼陽」といった。500円ながら、さすがに中国製、漢字を書くには適していたように思う。ブルーブラックのインクはパイロット社製のものだろう。沈んだ色が好ましい。講義録やら、読んだ本の感想やら、気になる言葉の引用でノートは埋めつくされていた。暇だったんだなあとも思うが、至福の時代であったようにも思う。今だって、始終何かを考えている。でも、いつもいつもそのことだけを考えているわけにはいかない。これでも社会人だから、仕事中は仕事に集中しなければならない。思考は寸断され、せっかく思いついたことが雲散霧消することも度々である。大学ノートに残された記録は、字は稚拙ながら、その頃考えたことが今でも読めるのはなんだかうれしい。今時の学生はやはりパソコンに入力するのだろうか。意味は伝えることはできても、インクの色や万年筆の筆跡は残らない。このちがいは案外大きいのではないだろうか。

 2003/5/13 釦

おろしたばかりのシャツのボタンがとれた。素材はインディア・マドラスだが、縫製は日本製である。しかも、それなりに名の知れたブランドのもの。近頃では衣料品まで、不祥事が起きるようになってしまった。予備のボタンがついていたので、久しぶりに針を持った。なに、こう見えても家庭科は得意分野である。下宿時代はバーゲンで買ったズボンの裾直し賃を浮かすため、自分でダブルにしたこともある。ボタンつけくらいはお茶の子さいさい。あっという間につけ終え、近くのボタンを見て驚いた。上下二つのボタンの糸が切れている。はじめから、するべき仕事がされてないのだ。玉結びは、ミシンではできないのだろうか。人の手でつけたものならこうも簡単にはずれるはずがない。ずっと愛用していた某外国メーカーのシャツは、生地が破れて修繕ができなくなるまで着たが、ボタンがはずれることはなかった。この国の低迷は政治の所為ばかりではない。

 2003/5/10 砂浜

思いなしだか、また砂浜がへったようだ。潮の満ち干もあるだろうが、年々砂浜の部分が後退しているような気がしてならない。叔父が結婚したのが、このあたりの在の人だったので、小さい頃この隣の海岸に潮干狩りに来たことがある。鬱蒼とした松林のなかで着替えると、こぼれ松葉が足にあたるのも気にせず、海岸に向かって走り出したのだったが、どうしたことか、どこまで行っても海らしい海はなく、ふくらはぎあたりまで水に浸かってから後ろを振り返ると、さっきまでいた松林が遠くの方に細長く続いているのが見えた。この辺の海岸は遠浅で、潮のひいたときには沖の方まで行っても足が立つのだった。あの日は大漁で、夕暮れに叔父の家に戻ったときには米袋いっぱいの青柳を持ち帰ったことを覚えている。今では真新しい堤防が海岸に沿って続き、海と集落を截然と区切っている。存在価値のなくなった松林には雑草が繁り、松枯れ病で切り倒された木の切り株の間に、背丈も太さも不揃いな松の木がひょろひょろ生えているばかりで以前の松林の面影はない。海側の堤防の下には浜昼顔の群落がひろがり、ところどころに薄紫の花をのぞかせている。海雀が二羽、話でもしているように草むらの上を歩いている。人も犬もいない。

 2003/5/9 若葉寒

真夏日が来たかと思うと、急に気温が下がり、昨日と今日では10度の差がある。何を着たらいいのか迷うのはこんな時だ。夏物では寒く、かといって季節はずれの服も着られない。若葉の出るころ、時に肌寒い日があるのは今にはじまったことではないらしい。俳句の世界に「若葉寒」という言葉があるそうだ。「若葉雨」「若葉風」などとともに、今の季節を言い表すに相応しい言葉だと思う。事務的な会議の開催を知らせる通知にも、時候の挨拶を入れねば気がすまないお国柄、さすがに、季節の様子を表現する言葉には事欠かない。仕事場の窓から見ると、田圃の緑が日増しに濃くなっていく。もうしばらくすると梅雨に入る。言葉の多様さは季節の変化に心を添わせる心性の現れだろう。武張った物言いばかりが目につく昨今である。時には歳時記など開いて、この国の細やかな心ばえなどを愛でてみるのもいいかもしれない。

 2003/5/8 甘味

小さい頃はこれでも甘党だったのだが、最近では、甘い物、特に餡ものを食べると、てきめんに胸がやける。昨日今日と、家に帰るとすぐ胃薬を飲む始末だ。職場で「一つ如何ですか」といわれると、小さい職場のこと、わざわざ買ってきてくれる人の気持ちが分かっているだけに、断るのも気が引ける。袋入りの菓子なら一つとってそっと鞄に入れる。家に持ち帰れば、いつの間にか消えているから不思議だ。しかし、昨日はみたらし団子、今日は大福である。お持ち帰りもならず、口に入れることになる。その時は美味いのだが、後がいけない。酒だと「いたって不調法で」といって逃げることもできるが、菓子はそうもいかない。語の真の意味で「饅頭こわい」の心境である。

 2003/5/3 帰郷 

車の前に飛び出してきた黒い影を見たとき、はじめは揚羽かと思った。轢いたかと思ったその時、きれいに身を翻したのを見て燕だと気づいた。地上すれすれのところで飽かずに宙返りを繰り返している。燕が巣を拵える家は縁起がいいという言い伝えがあるからか、昔風の造りの農家などでは、その季節になると玄関の戸を開け放しにしておき、燕の訪れを待つという。また、燕もよく忘れずに帰ってくるものだ。動物の持つ帰巣本能というものの不思議を感じる話は多い。閑話休題。家を留守にしていた子が三連休の間帰郷している。久しぶりの遊び相手との再会に、ニケもさぞかし喜ぶだろうと思っていたのに、会った途端声を挙げて威嚇する始末。「犬は人につき、猫は家につく」と聞いてはいたが、これほどとは思わなかっただけに少々とまどっている。当方の膝の上でくつろいでいるニケを見ていると、我が身が簒奪者に感じられてばつが悪い。三日の間に思い出してくれるといいのだが。   
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