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 2003/3/27 人事

人事異動の季節である。早春のこの季節、人事担当者の間に蔓延する気分のことを、季節の花の香りから「沈丁花の憂鬱」というのだそうだ。人事で憂鬱になるのは動かす側だけではない。動かされる側こそ憂鬱なのだ。辞令一発で、まったく知らない部や課、あるいは遠くはずれた町にある営業所まで、社会人ならぬ会社人なら、文句も言わずに異動しなければならない。中桐雅夫に『会社の人事』という詩集がある。詩集らしくない題名なのでよく覚えているのだが、その中にやはり「会社の人事」という詩がある。
日本中、会社ばかりだから、
飲み屋の話も人事のことばかり。
詩人は、小さい頃には夢や理想もあったのに、と嘆くのだが、会社人にとって人事の話は他人事ではない。とはいえ、自分に異動がかからない年は、やはり他人事。あれこれ予想しては当たっただの外れただの一喜一憂して飽かない。四月になり新しい顔ぶれで動き出すまでの間のささやかな気散じである。

 2003/3/25 春の海

雨が上がって日が差してきたのは、ちょうど昼時だった。毎日、定食も味気ない。コンビニでおにぎりを買って、近くの海に車を走らせた。堤防で車を止め、おにぎりを持って外に出た。コンクリート護岸に腰を下ろすと、海は目の前にあった。風は凪いでいた。薄曇りの空を映した海には海苔の養殖に使う竹竿がどこまでも続いている。時折、鴎が水面すれすれにすうっと飛んでは空にあがる動きを繰り返していた。浜辺には、小さな女の子が二人貝殻でも拾うのか頭をくっつけるようにして砂の上にしゃがみ込んでいた。その向こうに広がる水平線の上には青灰色の雲が山並みのように続いていた。めずらしく仕事に追われ、ここのところこういう時間を持てずにいた。昼休みといっても独りになれることなど滅多にない。何も考えずに海と空の間に独りっきりでいると、乾いた地面に驟雨が降りかかるように静かに潤いが広がっていくのが分かる。かんたんなことだったのだ。心のざわつきをしずめることは。

 2003/3/22 静かな街 

不思議な街並みだった。ヨーロッパやアメリカにありそうな傾斜角の大きい破風を持った家並みが異様に隣接して丘陵を埋め尽くしていた。築後、数年もたっていないのだろう、真新しい壁や屋根の色が奇妙に現実感がなく、映画のロケ現場に紛れ込んでしまったような気がしたものだ。この日は海を隔てた隣の県にある学校に行く子どものために、荷物を載せて湾岸道路を走ったのだ。高速を降りた辺りは、どこにでもある日本の農村風景であったものが、下宿先のある区画に入ったとたん景色が変わった。新しく山を切り開いた新興住宅地の持つ無国籍なたたずまいは、古い町に住む者をたじろがせるほど、無機質な印象を残した。生活臭がまったく感じられない街には、洒落た洋風レストランとか美容院、誰ひとり遊んでる子のいない公園が点在するばかりで、休日だというのに人の気配というものがない。職住分離型の環境とはこんなものなのだろうか。人は車で移動し、仕事をすませて車で戻ってくるのだろう。何かというと通りの人声で気の散る環境に暮らしていると、この静かさは不気味ですらある。車で少し走ると、県道沿いには寂れた商店街が軒を並べていた。無国籍な街と時代から取り残されたような店の取り合わせに酷薄なものを覚えた。この町で暮らすなら、人のぬくもりを感じさせる場所を自分で探し当てる必要がある。中古の原付を探していて、油染みの目立つつなぎを着た単車屋の親爺にやっとそれを見つけた。契約書を書いていると、日暮れを告げる寺の鐘が鳴った。なんだかほっとするような音だった。

 2003/3/20 開戦

とうとう始まってしまった。必ずそうなるに違いないとは思っていても、できたらそうはならないでほしいと考えていることがある。米英によるイラク攻撃がそれだった。現実に戦争が起きるまでには、様々な駆け引きが駆使されるものだろうし、その原因理由にいたっては単純なものであるはずがない。裏では石油戦略や軍需産業の思惑があり、表面的には世界秩序や信仰といった美名が囁かれる。そのどれもに幾ばくかの真があり嘘が混じる。ただ、言えるのは、今回の攻撃に対して世界の多くの人々が「否」を唱えていたということである。湾岸戦争時の多国籍軍とはそこが違う。日本政府はいちはやく米国支持を表明したが、そこには、世界を客観的に見る視点がなく、自国の国益のみに拘泥する利己的な主観が露呈していた。同盟国として支持するのは当然、と胸を張る首相だが、そこには独立国としての矜持の片鱗もうかがうことができない。イラク攻撃を伝える新聞の大見出しの下に小さく、愛国心や公共の精神を謳った新しい教育基本法に向けての動きが報じられている。皮肉なことだが、現政府のいう愛国心とは何か、公共の精神とは何なのかを占うという意味では、小泉首相の答弁は意味があったというべきかも知れない。

 2003/3/17 カントリー&ウェスタン 

雨も上がり、日中の気温は三月下旬の暖かさ。そろそろ春は名のみとばかり言っていられなくなってきたようだ。イラク情勢の影響か、原油の価格が安定せず、ガソリンを入れたらいつもより1リットルあたり10円ばかり高くなっている。夕日に照らされながら国道を走っていると、音楽でも聴こうかという気になってくる。ラジオをつけるとカントリー&ウェスタンが流れてきた。大学時代に入っていた軽音楽部で、いつもコピーをやらされていたマール・ハガードの曲だ。カントリーは好きなのだが、何分時世が悪い。国威発揚に使われるのだろう、アメリカに戦争の影が忍び寄ると俄然カントリーがかかり出すのである。先だっても、女性カントリーシンガーが、ブッシュ批判をしたことが報道されると、その歌手のCDは放送禁止にされてしまったという。映画『イージー・ライダー』でヒッピー風のオートバイ乗りを遊び半分にライフルで撃つシーンに衝撃を受けたが、アメリカの古層にはいまだに、WASP(アングロサクソン系の白人でプロテスタントの人々)でなければ人でないような気分が染みついているらしい。ジャズやロック、ブルーズやフォークソングは、黒人音楽がそのルーツにある。その点、カントリー&ウェスタンは黒人色が薄い。「合衆国」と、いつの間にか「州」が「衆」に変わるほど、いろいろな人種の溢れるアメリカだが、戦意が高揚すると、いつの間にか開拓時代に先祖返りをしてしまうようだ。歌が国威発揚に使われるのは毎度のことだが、嫌いじゃない音楽であるだけにたまらない気がする。

 2003/3/15 同窓会

三年ぶりの同窓会。前回はすっかり忘れていて終わりがけに顔を出してみんなにさんざん嫌みを言われたから、今回はそのリヴェンジ。十分前には着いた。土曜日にしたのがまずかったのか、少々集まりは悪い。仕事で来られないという返事が多かった。このご時世だ。仕事があるなら何よりである。まずは忙しい同窓生の無事と健闘を祝って乾杯した。人数が少ない分、全員が話の輪に入れて、それはそれで楽しいものである。昔話に花が咲くというが、もう何年もやっている小学校時代の同窓会で、まだ話すことがあったかというくらい子ども時代の話が出てくるのは不思議である。自分では意識してない頃のことだから、人の話から自分の子ども時代の様子が見えてくるのは、同窓会の面白いところだ。前回は、子ども時代から世間を斜めに見ているところがあったと言われたが、今回は、子どもらしくない子だったと言われてしまった。こまっしゃくれた餓鬼だったのだろう、きっと。何度もやっていると顔ぶれは決まってくる。何人か常連の顔が見えないのは忙しいのだろうが、連絡のはがきを出すことのできない音信不通の級友が気になる。ふだんは思い出すこともないのに、昔話をしていると、子どもの頃いっしょに遊んだ光景が当時のままに甦ってくる。草ぼうぼうの原っぱに座して、ポケットから出したハモニカを吹いていた頃のことが。

 2003/3/11 風邪

期限に追われて休日返上で仕事をしたら風邪を引いてしまった。やっぱり休みの日は休まなければいけないという当たり前のことをあらためて思い知らされた。薬を飲んで早く床についたのはいいのだが、深夜に目が覚めてしまう。いつもなら、風呂に入り、それから酒でも飲みながらゆっくりする時間に布団に入ってしまうと、風邪薬の効き目が切れたあたりで目が冴えてくるのだ。翌日職場でその話をすると、眠るのにも体力がいるという話になった。何でも年をとり体力が衰えてくると眠れなくなるから、老人は朝早く目が覚めるのだと。眠るのに体力がいるなどというのは初耳である。まるで、平和でいるために軍事力がいるというどこかの国の議論みたいで、はなはだ信憑性に乏しく思われるが如何なものか。

 2003/3/7 祝電 

卒業式の季節だ。公立校の入試はまだだが、推薦入試で合格したという連絡が入ってきたりもする。卒業式が明日だというのを聞いて、あわてて祝電を打とうと電話帳を探した。電話が普及する前には、緊急時には重宝がられた電報だが、近頃では専ら儀礼的な使われ方に限られているようだ。深夜に戸を叩いて「電報です」を連呼する情景は今では、想像することすらできない人の方が増えたのではないか。至急の電報を「ウナ電」というのだが、あれはどうしてだったろう。NTTの前身を電報電話局と言ったが、「サクラサク」にしろ「ハハキトク」にせよ、うれしいにつけ悲しいにつけ人生の転機、一大事という時にはそこに電報があったものだ。FAXやインターネットが普及した今でも、結婚式や卒業式、入学式といった特別な日には電報が花を添える。そこを見込んで不必要に華美で高価な電報が用意されているのには鼻白む思いがしないでもないが、そこはご祝儀と割り切るしかない。そう何度もあることではないのだ。自分に関していえば、この後もらえるのは弔電くらいのものだろう。それにしても、何かというと電報を打つ習慣はいったいどこから来たものか。どうでもいいようなことだが、ちょっと気になる。

 2003/3/4 鈴鹿

所用があって鈴鹿を訪れた。小雪の舞う生憎の天候だったが、メインスタンドに立つと、腹の底にまで響くような独特のエクゾーストノートが聞こえてきた。練習走行なのか、いくつものピットに人影が見え、次々と車がピットインしてくる。赤や黄のカウルが雪交じりの風をついて走る光景は何ともいえないものがある。隣接する遊園地には、本田宗一郎が存命中には作られることのなかったジェットコースターが幾種類か目についた。こんな雪の日に訪れる人も少ないのか、乗る人の来た時だけ動いていたようだ。日本のモータリゼーションの発達のために作られた鈴鹿サーキットは本来単なる遊園地ではなかった。エンジンやモーターで動く機械に子どもが触れることで興味を持ち、次代を担う若者に育ってくれることを願って作られたものであった。自転車のフレームにエンジンをつけてはオートバイを試作していた宗一郎ならではの夢である。しかし、創業者が亡くなれば、新興のテーマパークに押される遊園地としての営業政策の前には、その趣旨も変わらざるを得ないのだろう。自分としては免許を持たない子どもでも乗れるゴーカートが一番楽しかったことを覚えている。本当に今の子はそれよりも絶叫マシンの方が好きなのだろうか。

 2003/3/2 静寂

パスタと一緒にいただいたワインの酔いが少し回ったのか、床屋で順番を待っている間にうとうとしてしまった。また、風はあっても春の日射しの冬とちがって暖かなこと。陶然とした気持ちにもなろうかというもの。目を瞑って髪を切ってもらっていると、今日はなんとしたことかテレビの機嫌が悪くて、スイッチを入れてもつかないんですよ、と亭主の声が聞こえてきた。なあんだ、そうだったのか。亭主の手の動きにつれて鋏が奏でる音もなんだか、いつもとちがってよく聞こえるし、さっきから不思議に気分が落ち着いている。ぽかぽかとした陽気のせいだけではなかったのだ。ふだんは誰が見るのでもないのに、テレビがいつもついていた。テレビが店に入るまでは有線放送が苦にならない程度の音量でクラシックやイージーリスニング曲を流していたのだが、いつの頃からかテレビが入り、その音と人の話し声で余計にさわがしくなった。テレビの音がなくなっただけで、人の話し声もまたへり、誰も口をきいていないときは鋏の音だけが聞こえている。表通りは日曜日の昼下がり。時折通りすぎる車の音をのぞけば、しんとしている。テレビがやってくるまで、我々の周りはこんなにも静かだったのだ。たまにはテレビのないのもいいよ。そういってまた目を閉じた。
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