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 2003/1/30 道草 

仕事帰りに図書館に寄った。前々から頼んでいた本が入ったという連絡をもらったからだ。ついでに「サライ」を読んだ。一時は毎月本屋に届けてもらっていた本だが、購読層の違いに気づいて購読をやめた本である。今回の特集は旅の達人による定宿特集。確かにいい宿が多いが、宿泊料金が高すぎるだろう。どんな読者が読んでいるのだろうか。個人美術館の特集はよかった。コレクション熱が高じてついに展示施設まで作ってしまう人々の情熱が伝わってくる。日本初のTV受像器をコレクションする、町の電気屋さんが作った美術館はわりと近くにある。いつか行ってみたいものだと思った。仕事場から家に帰る間に別の場所を入れるだけで、気分はずいぶん変わる。小さい頃はよく寄り道をしたものだ。同じ道を行って帰ってくるのは年をとった証拠だという。たとえ行き先が同じでもルートを変えることはできる。今日はどの道を通ってみようかと考えられるのが若さである。たまには道草を食って帰るのもいいかも知れない。

 2003/1/27 ナフタリン

その人が席を立つと、後にかすかな残り香があった。香水の類ではない。いやな匂いではないが、なんだかもの悲しいような懐かしいような、昔を思い出させた。そうだナフタリンだ。箪笥に服をしまうとき、青や黄のセロファンに包まれた白い薬の四隅を切って抽出に入れた。洋服ダンスを開けるたびにその香りはした。何か、特別な日に着る服を取り出すときにしたその香りを久しぶりに嗅いだのだった。今夜は仲代達矢の主宰する無名塾がアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を上演する。仲代を知る世代も少なくなったのか、会場は年配の人が多い。年に何度かの観劇である。箪笥にしまっておいた洋服を出してきたのだろう。舞台で上演されている老セールスマンの生活と客席のナフタリンの匂いには通ずるものがあるような気がした。仲代の演技は鬼気迫るものがあり、熱演というのはこういう演技を指すのだろうと思われた。前から二列目という席で見ていると、芝居というものが身体の領域に属するものであることを改めて思い知った。憑かれたような迫力で演じきった仲代は芝居が終わった後のカーテンコールの際も、まだウィリー・ローマンのままであった。お辞儀をするときの低い腰の位置に、老セールスマンの悲哀が滲み出ていた。

 2003/1/26 夜の雨 

 天気予報では雨のはずだったのに、一日もってしまった。それでよかったのに、なんだか損をしたような気がするのはなぜだろう。もし、いい天気だと決まっていたら、どこかに出かけたかも知れない。たとえば、ずっと行っていない山の方にでも。実際はまだまだ寒く、ベランダに椅子を出して本を読むのも厳しい。たぶん行かなかっただろうけれど、一日降らずにいたらそんな気になるのだから勝手なものだ。
 若い頃は日曜日など、一日中家にいるともったいないことをしたような気がしてきて、夕方頃になってから闇雲に自転車を走らせることがあった。どこといってあてがあるわけでもない。暮れてゆく町の中をただただペダルを漕いで通り過ぎるだけのことだ。家にいては何も起こらないけれど、そうして外にいさえすれば、何かに誰かに出会えるかも知れない。無為に過ごした一日を惜しむかのようにあてもなく町を彷徨っていた。
 今は、一日中家にいながら黄昏を迎えても心騒ぐことはない。今日が終わり明日が来てもいつもと変わらぬ毎日が続いていくことを知ってしまったからだ。雨は夜半になって降り出した。そのせいか、暖かな夜である。

 2003/1/24 深夜番組

午前三時。猫に起こされてしばらくつきあわされる。TVをつけると、お笑い芸人二人がぎょろっとした目つきの男を間に挟んで座っていた。男は公安調査庁出身で北朝鮮に詳しいとのふれこみである。平壌放送を傍受していたら日本語の放送の後に「ハングル」(ハングルって文字のことじゃなかった?)で訳の分からない数字の放送が続いていた。あれが拉致の指令だったなどという話を真顔でしていた。お笑い芸人と、にこりともしない老人の取り合わせが見るからに異様だった。あまり昼間の番組では流すことのできない種類のネタである。深夜に民放の番組を見ることはあまりないので、こんな話題が夜の間に流れていることを知らなかった。日本の諜報活動や危機管理の甘さを憂えている老人の話に、にやにやしながら相づちを打つ落語家出身のタレントはまだしも、もう一方のコント芸人の方は、真剣な表情でいちいち頷いている。二人ともそれなりに人気タレントだがこんな時間だ。おそらく若いファンしか見ていないだろう。見ている人たちは、公安というものの何たるかも知らないにちがいない。もしかしたら番組の送り手たちだってよくは知らないのかもしれない。なんだか剣呑な時代になってきたぞ、というのが偽らない心境である。

 2003/1/23 風呂

あっという間に服を脱ぎ終わると、あわてて風呂に飛び込んだ。今日の冷え込みは厳しい。一番風呂は気持ちはいいが、揉まれておらず、人の皮脂が湯の中に流れ出していない分、湯が肌を刺す。それでも、湯の中で動かず、しばらくじっとしていると、体が芯から温まってくるのが分かる。寒い日には風呂が何より有り難い。しかし、昨今、このような入り方はすこぶる評判がよくない。急激な温度変化は体によくないのだそうだ。それで、まず脱衣室に暖房が設けられ、ついには浴室暖房まで。初めて聞いたときには風呂の中を暖房するなんてと思ってしまった。だって、風呂は温かいじゃないか。確かに浴室の床は最初はいったときはひやっとする。それでも、すぐに浸かってしまえばなんてことはない。溢れ出した湯で、体を洗うときには温められている。風呂に限らず、最近は、快適さを求めるあまり、生活にメリハリがなくなってきている気がする。冬は寒いものだ。だからこそ、風呂の温かさがうれしい。部屋から脱衣室、浴室まで暖められていれば、確かに服を脱ぐときのぞくっとくる感覚はないだろうが、湯に浸かったときの感動は薄れるだろう。露天風呂にわざわざ浸かるのは、外の寒さと湯の熱さの落差に感動するのである。快適さを求めるあまり、その落差をなくしてしまうのはかえって感動を薄めるものではないだろうか。

 2003/1/22 酒と税

物の値段が下落し、安い対価で購入できることをデフレという。今、日本はデフレ、デフレと騒がれているが、オレンジ1キロの値段を世界の主要都市で調べてみると、日本の物価はその中でも断トツに高いことが明らかになった。つまりデフレと言われているが、日本の庶民は、世界の中でもかなり高い物価の中で生活しているのである。一時期、スチュワーデス(今はフライトアテンダントか)が、日本で泊まるときはインスタントラーメンを食べている話が話題になったことがある。和食など食べていては、足が出るということだ。これだけ高い物を買わされていながら、デフレだと言い、インフレターゲットの論議がされるというのは、庶民よりも企業を大事にした政策だということが明らかである。そんな中、確かに安くなったのは洋酒だろう。今日も、ジョニーウォーカーの赤、通称ジョニ赤が1000円で売られていることに驚いた。昔は赤が5000円、ジョニ黒は1万円としたものだ。どうして洋酒がこんなに安くなったのか、その理由が分からない。ビールなどは、そのほとんどが税金だといわれてきた。おまけに、消費税以来、税金を買うときに税金を払うという二重取りがまかり通っている。売れ行きが伸びている発泡酒やワインはなどは、何とか税率を上げたい動きが見えているというのに。スコッチウィスキーに人気がないからなのか。本質論はそっちのけで、とれるところからとってゆくという税制のやり方に、この国の政治のあり方が見える。酒は文化である。禁酒法下のアメリカの様子を思い出せば、その影響力が分かるというもの。ジャック・ダニエルが安くなったと喜んでばかりはいられないのだ。

 2003/1/20 70年代

カー・ラヂオから懐かしい歌声が流れてくる。この間亡くなったビージーズのモーリス・ギブの声だ。ソロシングルだというが、カントリーっぽい伴奏が心地よく響いてくる。バックミラーには夕焼けの最後の光が雲の端に細いフリンジを描くように輝いている。前方にはようやく灯りだしたネオンライトが赤や青の光を点滅させている。見慣れた家々が夕闇に沈んでしまえば、アメリカの片田舎の道を走っているような気がしてくる。曲は変わってビージーズの70年代のヒット曲が流れている。マシューズ・サザンコンフォートやペンタングルにも似た、アメリカに憧れながらもどこかちがう、独特の節回しや歌声が一つの時代を強く主張している。あの当時はさほど感じなかったものが、今聞くと何とも言えず美しく聞こえる。歌詞とかメロディーの問題ではない。歌や音楽の持つ力が今よりももっと強く信じられていたからだ。歌に何かを託し、歌うことで何かを変えようとしていた。世界はたしかに変わった。あの頃想像していたものとはかなり違う世界に。

 2003/1/19 白蟻

また、家の話。屋根を直しにきた業者に床の具合を話したら、「僕がもぐって見てみます」と言ったきり音沙汰がなかった。ちょうどM社からのアンケートが来ていたのでその由を書いて送ったところ、程なく「近いうちに伺いたい」と電話がかかってきた。M社のえらいところは、必ずこうした調査をして顧客の不満を解消しようとするところだ。もっとも、それが次の仕事の受注に関わるからだが。床鳴りの原因と考えられるのは基礎や束の不具合か、さもなければ白蟻である。もぐって見てもらったが、今のところ深刻な問題はないらしい。ただ、白蟻予防の薬剤散布はしばらくしていない。それで今日の薬剤散布ということになったのだ。
 朝からやってきた二人の若者はてきぱきと作業を進めていたが、しばらくすると玄関で呼ぶ声がする。「洗濯機の排水がはずれていて水がだだ漏れして、洗面所の下がプ−ル状態なんですよ。今、薬をまいても効き目がないので今日はできませんね。」という話だ。以前は洗面台の下の排水がうまくいかず水が漏れて床板を張り替えた。配管工事をした下請け業者のやり方がいい加減だったのだろう。床下までもぐって見ないから分かりようもない。水の抜けるのを待って一月後にまた来てもらうことにした。それにしても、次から次へと飽きもせず厄介な問題ばかりよく出てくるものだ。プレハブ建築というものに歴史がなく、試行錯誤の中で施工していたのが原因である。
 伝統というものを軽視するような心性が、戦後生まれの世代にはある。敗戦によってそれまでの価値観を根こそぎ否定してしまったことがそういう考え方を生んだ。前近代は前近代であるだけで否定され、新しいものはすべてよいもののような気がしたのだ。それがまちがいだったことにこの頃ようやく気がついた。家のこともだが、心配なのはこの国の屋台骨の方である。「伝統」の復活が叫ばれているが、担がれているものが本当の伝統かどうかは疑わしい。成熟した目でじっくりと検討を加えたいものだ。そうでなければ、何のために歳をとったのか分からないではないか。

 2003/1/17 会議

午後の4時から始まった会議は途中10分間の休憩を挟んで8時30分までかかった。もちろん食事抜きで。前半の会議はもともと、用意された内容を次々に発表していくだけであったから予定された時間内に無事終了することができた。問題は十分の休憩の後、懸案となっている問題についての会議の方だった。社会が右肩上がりの成長を遂げている間は、何の問題も起きてはこなかった。皆、そこそこ満足しながらそれなりに豊かな社会の恩恵を被っていたからだ。経済成長が止まり、バブルと後に呼ばれるようになる時代が終焉を遂げ、経済状態が坂道を転げ落ちるようになると、それまで鬱積していた不満や不平が、いろいろなところから噴き出してきた。社会正義の鎧をまとって、以前の状態と変わらない状態にある機構に対して、それでいいのかと難癖をつける。満たされない気持ちで日々を送る世論や大衆は、その騒ぎをおもしろい見せ物のように囃したてる。改革という名さえ付ければ、それがたとえ改悪であろうと、新しく変化があるというだけで何かいいもののように見えてしまうらしい。今の状況の悪さが変化を求める気分を急きたてるのだろうか。負けが込んだときのギャンブラーのようなものだ。どの顔も、ゆとりをなくし自分の足下に火がついているのに気づかない。目先の状況にとらわれることなく、十年先二十年先を見据えて行動することが求められていると思うのだが。浮き足だった気分に会議は押し流され何ら実質のない結論ともいえぬ内容をまとめるだけで時間切れとなった。徒労感の残る一日だった。

 2003/1/16 ハートで書く

一度見た映画を、二度見直すことはあまりない。たとえそれがブラウン管の上であっても。それなのに『小説家を見つけたら』をまた見てしまった。ショーン・コネリーが好きな俳優であることもあるのだが、この前見たとき、途中で風呂に入らなくてはいけなくなり、ヴィデオで録画しておいたのに、ケーブルTVの故障か、途中何十分か画像が映らなくなってしまっていた。スコットランド出身の老作家とブロンクスに住む黒人青年の心の交流を描いた物語である。見直してみると、やはり、大事なところが抜け落ちていた。作家が青年に物を書く時の心構えを教えるところだ。「書き出すときは考えるな。ハートで書け。書き直しのときは頭を使え。」というのは、まさしくそのとおり。年末年始の休みに何冊か本を読んだのだが、時間があるのでいろいろ考えたら、かえって書けなくなってしまった。ふだんは時間に迫られて、書き直すこともせず、感じたことをそのままぶつけていた。どう書こうかと考え出したら堂々巡りで、あれもこれも書きかけた原稿ばかりが「メモ帳」にたまっている始末。ハートで書くことの難しさをあらためて知った。もともと、ハートより頭で書くタイプが、少ないハートをほっぽりだしてしまっては書けない道理である。キイを叩くリズムが文章を導き出すと、作家は言っていた。あまり考えずに書いてみようと思う。

 2003/1/14 冬景色

朝から顔を出した母が、「車、真っ白やんな。」と、教えてくれた。用意をして外に出ると、なるほど、ふだんはフロントガラスだけなのに、今日はルーフからボンネットまで、真っ白に凍りついている。こういう時に湯をかけても、すぐに凍りついてしまう。最近ではスプレーが発売されていて、一噴きすれば、あっという間に融けてしまうという。初めて試したが、なるほど効き目は能書きどおり。ワイパーを二、三度動かすと、視界は開かれた。坂道を下りきり、田圃の見える道に出ると、田圃は真っ白な霜で一面おおわれていた。驚いたのは、丘の陰になって朝陽があたらなかったのだろう。まるで雪でも降ったように道沿いの家の屋根まで真っ白だったことだ。霜の降りた日は暖かいというのだが、午後からは雨もぱらつくような天気のせいか、いっこうに暖かくなかった。昔習った「冬景色」という歌をしきりに思い出していた。
  さ霧消ゆる湊江の  舟に白し、朝の霜。
  ただ水鳥の聲はして、  いまだ覺めず、岸の家。

  嵐吹きて雲は落ち、  時雨降りて日は暮れぬ。
  若し燈のもれ來ずば、  それと分かじ、野邊の里。

 2003/1/11 自動車と戦闘機 

二、三日暖かな日が続いている。風もなく、工場から出ている煙突からは白い煙がまっすぐに昇っている。先日、「今度の土、日に来てください」と言われた車の整備に出向いた。戦時中、戦闘機を作っていた会社は、戦後、飛行機を作ることが許されず自動車メーカーになった。日本だけの話かと思っていたら、この間見た映画『小説家を見つけたら』の中で主人公の青年がBMWの持ち主に車の来歴を披瀝していた。それによると、BMWもまったく同じで、あの円を四等分した独特のエンブレムはプロペラを象ったものだという。高性能のエンジンを作っていたようで、もう少し戦争が長引いていたら完成したエンジンを搭載した爆撃機によってロンドンは空襲され、戦争はどうなっていたか分からないと、物騒なことを青年はしゃべっていた。日本の場合戦争末期は、戦闘機を作る材料にも事欠く有様だったから、敗戦は必至だった。もし、あの時こうなっていたら、という架空の戦記が人気を博しているようだが、歴史に「if」を持ち込むのは反則だ。空は飛べないが、雪の坂道でも雨の高速道路でもしっかり走ってくれる車ができたのだ。それでいいではないか。車に特別悪いところはなく、ナット類を締め直してもらったことで気になっていた異音も消えた。WRCで活躍している兄弟車の試乗を勧められたがやめておいた。一回りして帰り、自分の車に乗ったとき、必ず比較してしまうからだ。まだしばらくはこの車に乗るつもりである。せっかく静かな走りを取り戻した愛車に不満を感じるような馬鹿な真似は避けるのが賢明だろう。

 2003/1/10 深夜の読書

年末年始の休みで体のリズムがすっかり変わってしまい、仕事が始まってもなかなかもとに戻らない。朝起こされても真夜中のような気がするのは、二度寝をして間がないからだ。昼過ぎまでは生欠伸が出てしまらない。午後になると頭がはっきりしてきて仕事がはかどるのだ。そうはいっても、もっと寝ていたい時間に無理して起きるものだから、晩酌が終わるとすぐに眠くなる。風呂から上がり、ソファに座って舟をこいでいると、家人から「もう上に行って寝たら」と促される。十時前に床について眠るのは実にいい気持ちである。まさに「寝るより楽はなかりけり」を地で行っているわけで、蒲団に入った瞬間に寝入ってしまう。しかし、早く眠ると早く目がさめてしまうもので、夜明け前に起き出しては本などを読む癖がついてしまった。スタンドの灯りの下で深夜独り本を読むというのは読書環境としてこれ以上は望めないものがある。今読んでいるのは大江の『取り替え子』。深夜自殺した吾郎(伊丹十三がモデル)の遺したテープを一人聞きながら故人と対話するようにして考え続ける古義人(大江自身と思われる)の内面に無理なく入っていける。大江の小説の読み方を見つけたような気がした。

 2003/1/8 エッセイスト伊丹十三

新聞の広告欄で見つけた雑誌の特集が「エッセイスト伊丹十三がのこしたもの」であった。こいつは何をおいても読まねばならない。早速仕事の帰りに行きつけの本屋に寄った。若い頃の伊丹十三の写真がなんとも懐かしい。晩年の笑顔も悪くはなかったが、この時代の精悍な表情もまた捨てがたい。何といってもスタイルが身上というのがこの人だった。一緒に仕事をした村松友視が在りし日の伊丹を回顧する文章や和田誠や椎名誠の名エッセイスト伊丹を語る文章を読んでいると、みんなこの人の『ヨーロッパ退屈日記』にいかれてたんだなあ、と改めてその異才ぶりに驚かされるのだった。イギリス車はなぜ、オイルが漏れるのか、とかスパゲッティの正しい茹で方だとか、目玉焼きの食べ方だとか、考え様によっては実にどうでもいいようなことがこの人の手になると、一生忘れられない内容として記憶に残ることになる。誰かが書いていたが、この人のエッセイは買って読んで書棚にしまっておくという類の本ではない。話はよく知っているのに、何度でも引っ張り出してきては読まずにいられない。実際何度読んだことか。中に挿入されるイラストも著者自らが描いたもので、その独特の味は達人和田誠をして舌を巻かせる才能であった。単行本未収録のエッセイが数編収まっていたが、ついつい読み耽ってしまった。気がついたら特集記事は全部立ち読みしてしまっていた。そういえば二度ほど女店員が本を直しに来ていたっけ。お詫びというわけでもないが、佐藤忠男の「伊丹万作『演技指導論争案』精読」を買って帰った。十三が乗り越えようとして常に意識していた父万作は、伝説の映画監督でもあり中野重治や志賀直哉が認めた文章家でもあった。偉い父を持つと、乗り越えようとして息子も偉くなるものだが、それはそれで大変なことだなあ、と非才の父は我が息子の行く末を思い、なにやら安堵するのであった。

 2003/1/7 七草粥

近頃では、なんでも便利になって、わざわざ七草を探しになど行かなくてもセットになってスーパーで売っている。そういうわけで、今朝は七草粥だった。この間、在所の親戚が持ってきてくれた新米は、ふだん食べている米と品種がちがって粘り気のある種類。水加減を工夫しても、食感は微妙にちがう。しかし、粥となると、また話はちがう。もちっとした舌触りは、この品種独特のものだ。しかし、せっかくの七草粥だが、どこかほこり臭い気がするのはなぜだろう。おそらく、すずな、すずしろ以外の何かの葉の香りだと思うのだが。食べつけてないものを食べるのだから違和感はあって当然である。しかし、芹の代わりにクレソンをつかうとか、時代にあわせてすこし工夫があってもばちはあたらないだろう。 季節料理としてなくすのは惜しいが、このほこり臭さを何とかしたいものだ。大根や蕪のように食材として確立しているものをうまく使って新しい七草を誰か作ってくれないものだろうか。

 2003/1/6 神頼み

夕刻所用があって出かけたところ、市役所に近づいたあたりで渋滞に会ってしまった。人口十万で、財政難のために近隣市町村との合併問題が話題になっている小さな町である。渋滞などはめったにない。思い出したのは今日が仕事始めだったということだ。小さな町の割には大きな神社があって、何かにつけて政府要人が参拝することで知られている。進行方向にはぎっしり車が詰まってさっきからぱたりと動きが止まってしまったままだ。反対車線は車の影がなく、遠くで警察車両のランプが回転している。と、まず二台の白バイが駆け抜け、その後、ずいぶん経ってからもう一組の白バイに先行された黒塗りのセダンが目つきの鋭い男達を満載して通り過ぎていった。続いて二台の黒塗りのセダン。その後方車両後部座席に見慣れた銀髪の輪郭が見てとれた。その後にもセダンやバスが続く。物々しい行列が過ぎ去ると、車はいつものように流れ出した。これだけの警備陣を敷く以上公務だと思うが、祭政一致は昔のこと、戦後は祭政分離が原則のはず。首相の靖国神社参拝が問題視されるのも,A級戦犯合祀以前にそこが問題とされているのである。正月休みを芝居見物や映画鑑賞で過ごされるのは結構だが、問題山積の現場に戻った仕事始めが初詣とは、近代以前の国家を見ているような気になる。報道陣のバスも最後尾に陣取っていたが、既成事実として問題にもされない。景気回復も神頼みということか。やんぬるかな。

 2002/1/5 満天の星

高校時代の同窓会に行っていた長男からの電話だった。思ったより早く終わったので迎えにきてほしいとのことだ。思いなしか、声が震えているようだ。寒波が来ていて、一日中強い冷え込みだった。待ち合わせ場所を決めて外に出た。ふと見ると、玄関先に置いた甕に氷が張っている。朝からずっととけないで残っていたのだ。表通りに出て驚いた。頭の上に満天の星空が広がっていた。いつだったか、子どもの学校の宿題に星座の観測が出たことがある。分からないというので、教えてやろうと外に出たのはいいが、星は出ていても、はっきり見えない。こんな町なかでは、街灯やその他の家の灯りで、星など見えないのは当然だと思って、車であちこち走ったけれども、やっぱりどこへ行ってもよくは見えなかった。それが、どうしたことか一面の星空である。降るような星というのはこういう星空を指すのだと思った。朝から降った雪が空気中の塵を掃除してしまったのだろう。そういえば、昼頃外に出たとき、スキー場を思い出したくらいまぶしかった。暦の上ではそろそろ寒の入り。冷えこむはずである。

 2003/1/4 餅は餅屋

正月三が日に続けての土日ということで、人出を見込んでのことだろうか、車の展示会の広告が届いた。年末あたりから車に異音が聞こえていたので、相談がてら顔を出してみた。担当者が代わって間がないが、どうやらこちらの顔を覚えていてくれたようだ。クラッチペダルの件を話すと、「ちょっと走ってみましょう」といって助手席のドアを開けた。田舎道を走りながら、音を聞いている。「クラッチは大丈夫。これはマウントだな」と言いながら、「今日は整備が二人しかいないんですよ」と続けた。営業所に戻リ、車を停めた。「ドアを閉めるときにも音がするんだけど。」と、わたし。何度もドアを開けたり閉めたりして音を聞いていたかと思うと、やにわにボンネットを開けだした。おいおい、ドアだよ。ボンネットを開けてどうするの、と心の中で突っ込みを入れていると、右ワイパー近くのくぼみを指でこすりだした。「穴がつまってるなあ」と、つぶやくと、ピットの中に車を入れ、天井近くから出ているチューブのノズルをそこにあてた。空気が激しく動く音がして、作業はすぐに終わった。「もうこれで、音はしませんよ。」というので試してみた。あれほど軋むような音がしていたのが嘘のようだ。「もともとは水抜きの穴なんだけど、ドアが閉まるとき空気も抜いてたんでしょう。それが詰まってたもんだから、音が出たんですね。」言われてみると、分かる気がするが、ドアならドアにしか目が向かないのが素人である。ぶっきらぼうで、一見怖そうな感じの人だが、もとは整備もしていたのだろうか、自分の売っている車をよく知っている担当というのはありがたいものだ。帰り道で気がついた。クラッチペダルから足を離す時に出てた音がしない。手品みたいなものである。「餅は餅屋」とはよく言ったものだ。しかし、最近では、売るだけの餅屋もある。ほんとうの技術を持った餅屋を見つけたら長くつきあいたいものだ。

 2003/1/3 同窓会

暖かかったり寒かったり、毎日天気が変わる。今日は午後から雨が降り出した。日が暮れてからは雷も鳴る荒れ模様だ。こんな天気の中、妻は久しぶりに仲間が集まるというので、出かけていった。学生時代の仲間だから、同窓会というわけである。そういえば、しばらくお声がかからないが、これには訳がある。実は前回の同窓会当日、すっかり忘れて、車でドライブに出かけていた。携帯電話を持ってない頃だから、何度家に電話しても留守番電話が返事をするばかりだったろう。昼食を食べて帰ってきたら、車の音を聞きつけて隣の家から母親が出てきた。小学校時代の友人から電話があったときいて、その日が同窓会だったことを思い出した。慌てて駆けつけたが、もちろん大幅な遅刻である。欠席裁判が行われていたらしく、出席者の大半から皮肉を言われる羽目になった。しかし、「大体お前は昔からそうだった」といわれると、ちょっと心外である。約束をすっぽかしたりしたことはないはずだから、皆で何かすることに対する関心の低さをいっているのだろう。自分では分からないが、人の大勢集まるところは今でも苦手だから、そういうところはあったかもしれない。まあ、忘れたこちらが悪いのだから何を言われても仕方がない。もし、今度お呼びがかかったら何をおいても出席するのだが、あれからとんとお声がかからない。

 2003/1/1 年賀状

2000年の年末に年賀状は20世紀に置いていき、21世紀には持ち越さない由を書いたはがきを投函したのだが、今年も、ありがたいことに何通かの年賀状をいただいた。こちらが出さないことを分かっていてくださるのか、それとも、以前に出したはがきのことを失念されているのかが分からないため、一応御礼のはがきを返している。それでも、仕事関係の儀礼的なものが随分整理され、年末から年始にかけての恒例の仕事が激減した。友人知人の何人かは、こちらのわがままを理解した上で、近況報告をしてくれているのだろう。そういう賀状に返事を書くのは楽しいものだ。相手に合わせて写真やイラストを変え、一枚一枚に添え書きを書くのも数が少ないからこそできることである。以前は、暮れになると、版木を買ってきて、版画の図案を考えるのは楽しい仕事だったのだが、数が増えてくるに従いとても一枚一枚刷っていることができなくなってきた。一版多色刷りが単色に変わり、やがて印刷したものに変わるにつれ、儀礼的な風習に対する疑問が頭をもたげてきた。そこで、世紀の変わり目を理由に大鉈を振るったのだ。乱暴なやり方で礼は失したと思うが、年末の憂鬱な気分から解放され、おだやかな気持ちで年を越せるようになった。メールのやり取りのある相手には、メールで年賀状を送っている。これだと、保存場所にも困らない。もともと、年始の挨拶回りを省略したものである。近況報告を兼ねた挨拶ならこれで充分だと思うのだが。
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