caravan serai


聖母子と皇帝家族  (アヤソフィア)

 東西文明の十字路 ISTANBUL

朝、ホテルの回転ドアを開けると、猫がいた。黒と茶の混じった毛足の短い猫だ。妻がチーズのかけらをやると、ぺろっと食べた。旅先で猫を見かけると、いつものことだが、家に残してきた「ニケ」のことを思い出す。元気にしていてくれるといいが。

バスは、昨夕空港からホテルまで辿った路を逆に走り始めた。新市街側の交通の中心地であるタクシム広場を抜けると、道は緩やかに丘を下り、やがて海に出る。急に視界が開け、朝の光を受けて銀白色に輝くモスクの円い屋根や、尖塔が眼に飛び込んできた。新ガラタ橋だ。

昨日この橋を通った頃、陽はすでに金閣湾の向こうに沈みかけ、夕焼けのなごりをとどめる空と水の間に、旧市街が黒い影を横たえていた。逆光の中に浮かび上がる円い屋根と細長い三角屋根の塔。遠い日に見たおとぎ話の世界が目の前に広がっていた。

バスを降りた所は、かつてのローマ競馬場の跡、三本のオベリスクが建っていた。一般には内部の装飾に使われたタイルの青色の美しさからブルーモスクと呼ばれているスルタンアフメット・ジャミイはその前にあった。

 ブルーモスク(スルタンアフメット・ジャミイ)


 東西文明の十字路

アーチ状の門を入ると、まだ朝早いからか中はひっそりとしている。通路で、門番らしき男の人が落ち葉を掃いていた。
「メルハバ(今日は)」
と、声をかけると愛想良く
「メルハバ」と答え、
「日本人?そうか。でもあなたは、トルコ人に見えるよ。」
と、妻に言った。

東西文明の十字路、イスタンブルは、アジアとヨーロッパ、二つの世界を一つの街の中に持つ。今いる所は、いわゆるヨーロッパサイドに位置する。一方、ボスポラス海峡をはさんだ対岸は、アジアサイドである。
 
民族や宗教の違う人たちがこの国では共存している。モスクの近くにキリスト教の教会があったりもする。建国の父と呼ばれるケマルパシャが、強力に政教分離を果たしたからである。イスラム教の国ではあるが、国民は宗教を強制されていない。女性も顔を隠していないし、お祈りも各自に任されている。

トルコは政治経済的にはヨーロッパの一部であると、トルコの人は感じている。その一方で、自分たちのアイデンティティをアジアに置いていることもまた確かである。アナトゥーリアと、こちらの人は発音するが、アジアサイドにあたるその地に対する郷愁は、並々ならぬものがあるようだ。

そんなわけで、黒い髪、黒い瞳の日本人にはとても友好的に接してくれる。妻に対する言葉もそんな気持ちから出たものだろう。もっとも、モロッコでも同じことを言われた妻ではあるのだが。

 6本の尖塔の秘密

さて、スルタンアフメット・ジャミイだが、このモスク(ジャミイ)には、ミナレットが6本もある。通常は2本、田舎の方では1本だけのモスクも多いのに、どうして6本もあるのだろうか。それにはちょっとしたいわれがある。

ある時、皇帝が
「新しいモスクには、黄金(アルトゥン)の尖塔がほしいものだ」と言われた。それを聞いた家臣が建築家に伝えたのだが、建築家は、それを「6本(アルトゥ)の尖塔」と、聞き違えたというのだ。よくできた話である。おかげで、スルタンアフメット・ジャミイは、ほかのモスクにはない、6本のミナレットを手に入れたというわけだ。怪我の功名と言うべきか。

1616年に建てられたこの建物には、オスマントルコの威信がかけられているのだという。それというのも、ビザンチン帝国の象徴ともいえるアヤソフィアにちょうど向かい合うかのような位置に建てられているからだ。

大小の半球を組み合わせることで、内部に柱を立てることなく、広大な空間を生み出すイスラム教建築の技術はバジリカ様式の教会建築とその方法論を共有している。ただ、偶像崇拝を禁じたイスラム教の寺院では、キリスト教会にあるような、聖者や天使の姿の代わりに、植物をモチーフにした唐草紋や純然たるアラベスク文様が、びっしりとその内壁を覆うことになる。青と緑を基調にしたタイル装飾が、ステンドグラス越しにこぼれる日の光と、堂内に設けられた無数の吊り洋燈の光の中に浮かび上がる様は、喩えようもない。床にはこれも見事なトルコ絨毯が敷き詰められている。人々は履き物を脱ぎ、一人一畳程度の広さの敷物の上に何度も何度も身を投げ、コーランを口ずさみ、祈るのである。

 有名な猫の話




どこに行っても猫がいる。そして、どの猫も大事にされているらしく、人を怖がることがない。毛の色艶もよく、顔つきにもどことなく威厳がある。写真を撮っていると、男が近づいてきて、とても上手な日本語でこういった。
「一万円いただきます。これはとても有名な猫です。」
笑いながらそれだけ言うと、さっさと向こうへ行ってしまった。物売りでもない、勤め人風の男だったが。

東西文明の十字路というのは過去の話ではない。とにかく、この国の人の使う日本語は、片言なんかではない、見事な日本語である。そして、ひょっとしたら、いや、おそらく彼らは他の何カ国語も日本語と同じくらい流暢に話してみせるに違いない。実際話していると、新しい言葉を覚えてしまう力が尋常ではない。おそらく耳で覚えてしまうのだろうが、発音の確かさには舌を巻くばかりだ。

日本でも英語教育の重要性が叫ばれて久しいが、他の国の人や、風俗習慣に対する開かれ方が大切なのではなかろうか。我々にそれがあるなら、英語に限らず、どの国の言葉ももっと容易に身につけられるはずである。

 アヤソフィア



スルタンアフメット・ジャミイを出て、北に向かって歩くと、花の咲き乱れる庭園越しに、アヤソフィアの堂々たる姿を眼にすることになる。四方にミナレットが立っているので、モスクと思われがちだが、これはオスマントルコの時代にモスクとして使われるようになったとき、後から付け加えられたもの。もともとは、皇帝コンスタンティヌス二世が、ローマからビザンティウムに遷都した際建造した、れっきとしたギリシャ正教の大聖堂である。しかし、焼失破壊が相次ぎ、ユスティアヌス二世により537年にようやく完成される。その後も第4次十字軍やオスマントルコ軍により略奪、損傷されるなど、歴史に翻弄された教会建築といえよう。

美術館となった現在、モスク時代には漆喰で塗りつぶされていたビザンチン美術の傑作であるモザイク画が見られるようになったことが、何よりうれしい。

高いドーム天井から差し込んでくる覚束ない光の中に幼な子イエスを抱いた聖母の姿が鈍い黄金の色を放っていた。ビザンチン美術特有のはっきりした輪郭や衣紋の硬質な線からは見る者を威圧するほどの荘厳さが感じられる。しかし、その一方で、聖母子の顔には無邪気ともとれる表情が浮かんでいる。人間イエスという視点が現れる前の至福に満ちた聖母子の表現なのかもしれない。心和む母子像である。

 ディーシス(請願)

 

それは、思いがけない出会いだった。後陣のドームのかなり上方に描かれた聖母子を見ていたから、名高いディーシスも、きっと天井近くの暗がりの中にあるものと思いこんでいたからだ。二階回廊に足を踏み入れると、どこからか明るい光が射し込んでいるのに気づいた。光の方に歩き出したとき、誰かに見られているような気がした。振り返ると、そこにイエスがいた。

手を伸ばせば触れることさえ出来そうなところに黄金の光を背にして静かにこちらを見て立っていた。何という表情だろう。人間的な優しさや暖かさがないわけではない。心もち上に上げて祝福の意を表す右手からもそれは感じられる。しかし、堅く閉ざした唇や、高い鼻梁、そして何よりもその視線の持つ厳しさに威圧されてしまった。

それまで眼にしたビザンチン芸術では、キリストは、王者として描かれていた。むろんそれはディーシスにおいても変わらない。世俗の権力者が天上のキリストに自己を重ね合わせることを意図して作らせるからである。ただ、時代のせいなのか作者の意識によるのか、このイエスには他の多くのビザンチン美術に描かれたキリスト像にはない自意識を感じる。それが見るものをたじろがせる。その眼が信仰の有無を問うているのだ。

もとよりキリスト者ではない。しかし、宗教画には惹かれ続けてきた。世俗画には求めても得られないものをやはり求めているのだろうか。それが何かはまだ分からない。が、分からないままにこうして旅を続けている。いつかは分かるときが来るのだろうか。 

 トプカプ宮殿




「トプカピ」という名前を知ったのはメリナ・メルクーリ主演の宝石泥棒の映画だった。ただし映画では宝石を鏤めた短剣は警報機を仕掛けた台の上にガラスケースなしに置かれていたように記憶していたのだけれど、ここでは普通の展示の仕方で、ガラスケース越しの対面となった。

トプカプ宮殿は、ボスフォラス海峡と金閣湾、それにマルマラ海が接する絶景の地を選んで、丘の上に建てられている。テラスからは、その三つの海が一望できる。テラスには、遠く地中海やエーゲ海から吹いてくる風と、北は黒海からの風が行き交う。外は暑くとも、一歩陰の中に入れば驚くほど涼しい。金銀宝石には興味がもてないが、この景勝の地を独占する気分は一度味わってみたい気がする。

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last update 2001.2.12. since 2000.9.10